その愛は

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「あ、あの、笹井(ささい)さん」 後ろからの緊張した声と共に服の裾を掴まれた。歩いていたところに急に強制的なブレーキを掛けられ、少し前のめりになってしまった。 服が伸びるからどうせなら肩を叩くとかにしてくれればいいのに、などと思いながら振り向く。 そこに立っていたのは、小柄な女性。黒縁メガネがよく似合っており、知的な雰囲気だ。 だがそれよりも注視すべきはその顔。何やら頬が赤らんでいるようだ。すごく、嫌な予感がする。 「なんですか?」 どうやらもう自分の間違いに気付いたらしい。一度ピクリとした後、さらに顔が紅潮していく。 「いや、あの、えっと……」 予想通りのその態度に溜め息を一つつくと、言い慣れた言葉をかけてあげることにした。 「兄と間違えたんですね。よくあることですから、気にしないでください」 その言葉を聞くと、女性は何度も頭を下げてから走り去っていった。 もう何度目かわからないその光景に一際深く溜め息をつき、これまで進んでいた方向へと向き直すことにした。 人違いは、まあいいとしよう。おかげで白紙だった本日の予定が埋まったのだから。
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