蹉跌

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1978年4月 現場  丸尾の不思議は、いくつもあった。  一つは、これだけの規模の原発に、反対運動のかけらも見られないことだった。  既に、福島第1原発は1971年から運転されていて、年内に四つ目の原子炉の火も点るはずだった。  いくら、人口が少なく、元々が、海軍の飛行場跡地だったとしても、あまりにも静かすぎる。  そう、成田闘争は地方の経済成長の波に乗り遅れた地域では、否定的に見られていた。  地元で、反対運動を起こそうとした市民団体にアクセスした新左翼の各セクトは、ことごとく謝絶されていた。 「学生さんが来ると、まとまるものもまとまらなくなる」  もはや、新左翼は、日本人から乖離してしまっていた。  二つ目は、この広くて、迷路化した現場の案内図や地図が一切ないことだった。  やはり、過激派は、警戒されていた。  そんな中に、丸尾が居る。  もはや、一万個以上のテストピースを作り、破壊した。  原子炉建設を可能と判断する、1平方センチあたり6.5kgの圧力はおろか、2kg2も耐えられるピースは出てこなかった。  この結果は東京電力に伝えられるのだろうか。  現場の地図がない。つまり、丸尾の現場爆破計画は困難だった。  これだけの坑道を掘る。全部、機械で掘ったのだろうが、絶対に、ダイナマイトなども準備されているはずなのだ。しかし、機材倉庫は分散していて、更に、判らなくしてある。つまり、必ず、爆薬はある。
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