蹉跌

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1978年4月 東京  春の冷たい雨が、茶褐色の古い大学構内を濡らしていた。  4号館の薄暗い玄関をくぐりながら、丸尾は後ろを本能的に振り返った。何も脅威になるような人影はなかった。  仏文のゼミに出てきた。丸尾は文芸専攻で、フランス語は一切知らなかった。だが、比較文学のゼミの担当講師が島岡晨だったという理由だけで、履修届を出してしまっていた。  比較文学も、丸尾は興味を持たない。ただ、歴程の同人である島岡晨は、現役の現代詩人で、しかも現代詩以前の詩の広がりを持っていた。  そう、現役の詩人という生き物に会ってみたかっただけなのだ。  それでも久しぶりに大学で、文学的な会話をすることができた。ゼミに集った仏文の学生はほとんどノンポリシーで、安心してエリュアールの詩のエロスについて対話することができたのだ。  ゼミ生の半数はやはり詩人島岡晨に惹かれてやってきた。自分でも詩を書いている人間も多かった。  あるいは、大学に入って、一番大切にしたかった場所かもしれなかった。  しかし、丸尾は、あと何回ゼミに顔を出して、どれだけ、現役詩人としての、島岡晨や、ほかのゼミ生から刺激を受けることができるかを考えていた。  丸尾には大学は学修する場所ではなくなってしまっていた。
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