或る夜明け

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   女は聴き慣れた音楽で眼を醒ました。  辺りは何時の間にか明るくなっており、つい二時辰前には此の部屋も夜の底に包まれていた為に、いよいよ小暑の終わりに近づいたのだなと眠い頭で惚けて居た。  雨音はしないが、かあてんの脇から漏れる光の具合から見て青天ではない事を知る。  斯(か)かれど、肌薄の上に一枚掛けただけのケットが暑苦しくて堪らない。其(そ)れを隣で寝息を立てている男の方へ押し遣った。  男は覚醒する様子が無い。  女は凝然(ぎょうぜん)と男の寝る様を見て居た。  立錐(りっすい)の余地もない程に生え揃った睫毛(まつげ)は閑(しず)かであった。両眼の間から通る鼻梁(びりょう)は恰(あたか)も地中海の島の王が彫刻した作り物の様である。  其(そ)れ等を隠す漆黒の髪が、白色光に反射して円を描いて居る。雪白の顔は夜具に埋(うず)まって、色褪せた活動写真を眺めている感覚になる。  先から耳をつく哀愁を帯びた旋律(せんりつ)は、此の男の為に在るのだと、女は如何(どう)と云う事も無く思案に落ちた。  ――夜香木(やこうぼく)の匂いがする。  男の気色が僅(わず)か、両者の此の小さな隙間に現われた気になって来る。湯気となった男の香りを自身の胸中に吸い込む。  横たわる男の向こうに、有明行灯が置かれて居る。其の傍らには壁に打たれた棚上に、蓄音機が無造作に置かれて居る。覚えのあるゆっくりとした節は、あの円盤から流れて居たのだ。  女は網襦袢(あみじゅばん)姿のままぐすぐすと寝台から滑り出(い)で、畳に丸められた小紋を手に取って羽織った。絹麻の袋帯は、曙塗りの椅子に引っ掛けてあった。蓄音機に目を遣ると、疾(と)うに音楽は終わっていた。  頓(とみ)に帯を締める事が大儀に思え、椅子に腰かけた。  男は、無防備に広い背中を膨張し、収縮させ、己の拍子で生きて居るかの様に思える。  自分が目を醒ましても構い無しだ。証拠に、今だって斯(こ)うして夢と戯(たわむ)れて居る。  妾(わたし)は、此れ程にも憧(あくが)れて居ると云うのに――。  斯様(かよう)な醜い心に囚われる位だったら、未だ隣で横たわって居れば良かった。  悔悟(かいご)の念に女は、くと帯を締め、追われる様に男の薫りのする部屋から出た。
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