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初めて訪れた場所であった。
平長屋の片廊下に並ぶ一戸一戸の表札を確認しながら、菊間は肩が張っていた。明き手には書き付けが握られている。
昨夜、受話音量の不鮮明な電話機に全神経を集中させて書き殴ったは善(い)いが、今朝起きがけに俄(にわ)かに不安になった。真(しん)に此の所番地で適当なのか、所番地が正しいにしても、今立っている此の場所と所番地が合致しているのか、菊間には見当がつかなかった。八幡(やわた)知らずな己に、まるで自信がない。
而して廊下の終わる頃、目的の表札に辿り着いた時には、胸を撫で下ろしていた。
呼び鈴を鳴らす。
少頃(しょうけい)にして、黴臭い戸が開いた。中から出てきたのは、背丈五尺三寸にも満たない小男であった。
男は無精髭を歪めうそ笑んだ。初対面だとしたら、さぞかし不気味に映ったであろう面相は、菊間には慣れっこであった。
通された六畳の茶の間に敷かれた、埃っぽい夏座布団にちんと畏(かしこ)まった。
如何も、他人の家は不得手である。その最たる要因は、臭気である。平素から嗅ぐ機会のない、その部屋独特の生きた匂いが、何(ど)れだけ芳(かぐわ)しい香りだとしても、菊間には受け入れられなかった。否、室内に広がる臭気其の物が、異人(ことひと)の闖入(ちんにゅう)を拒絶しているかの様に思えてくるのだ。
「なあに、そんなに硬くなることないだろう」
急須と湯呑み茶碗を盆に載せた男が、菊間の向かいに安座した。
「この歳になると、足が弱っていけない。失礼するよ」
相変わらず片頬笑んだまま、男は湯呑み茶碗に浅緑の茶を注いだ。其れからぐいと茶を飲み干した。熱そうなのによく一気に飲めたものだと感心していると、男は卓袱台の上に身を乗り出してきた。
「で、御前さんの色話というのを聞かせて戴こうじゃないか」
――下衆(げす)だ。
菊間はほとほと厭(あ)きれた。
「勘弁してくれよ、近藤君。多分に手痛い状況なのだから」
「そうだろうな。大学校以来の再会だ。此んな薄汚い家に来る気にさせる程の大事があったのだろうさ。ほうら、茶でも飲んで早速語っておくれよ」
無責任にも、近藤は自ら話の堰(せき)を切っておいて急須を持って台所へ行ってしまった。
気が抜けた。
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