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菊間は大胡坐(あぐら)を組み、湯飲みを手に持った。火傷するような熱さだ。凡(およ)そ、此の季節に客人に出す物ではない。
りんりん、と音がした。
見ると、軒端(のきば)に吊るされた風鈴が揺れている。桔梗(ききょう)が描かれた硝子細工のものだ。開け放った雨戸の向こうには四畳程の庭があり、奥にはほんのり紫色に擬宝珠(ギボウシ)が満開であった。
小雨が降っていたなら、尚のこと風流だ。
「御前(おまえ)さんにも、そう艶(えん)な所があるんだな」
何時(いつ)の間に戻って来たのか、二杯目の茶を啜りながら近藤は卓に頬杖をついて此方(こちら)を覗いていた。
「からかわないでくれよ。僕は此れでも一応国語科の教員なのだから」
「そうだったなあ。学卒の中でも御前さんほど優秀な奴は居なかった。赴任先から青田買(あおたが)いされる位だもの。身内としては鼻が高いよ」
矢張り自分は此の腐れ縁にからかわれているのではなかろうかと、菊間は額の汗を拭った。
近藤とは尋常二年時以来の付き合いであった。
詳細は明らかではないが、其の頃に郵便局に勤めていた彼の男親が、年賀郵便の拡大に伴って浅草に転属されてきたのが切っ掛けであったらしい。
その時転入してきた近藤の面倒を頼まれたのが、菊間だったのだ。理由は何とも単純であり、『頭脳明晰』の只(ただ)此の一点に尽きていた。
今思うと、当時の担任に巧(うま)い具合に利用されたのではないかと、思い当たる節が多いことに愕然とさせられる。
近藤は兎角(とかく)やんちゃんで、何か悪事を働く度に菊間はひやりとしたものだ。
担任の寝癖を指差しては教室の皆を笑わせていたし、学力試験の用紙の隅に卑猥な言葉を書いたり、能く遅刻もした。
挙句、菊間は毎朝近藤の家まで迎えに行かされる事になった。
斯様な酷い仕打ちをされても、尚も近藤との縁を断たなかったのは、何処か彼に惹かれる部分が在ったのだろうと無理に思いあぐねてみた。そうでもしないと、果て無き徒労が無意味に思われてしまうからだ。
或る晩、近藤に大学校に行く意を打ち明けられた時に、菊間は大層魂消(たまげ)たものだった。冗談にしか聞こえなかったのだ。
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