怪盗

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 「どうして、アタシの名前……」 正確に男性名である自分の名前を当てた事に驚きで声が掠れていたが、それだけを何とか音にする。  男は少女の戸惑いを見て、口元しか見えなくとも優しいとわかる微笑みを浮かべた。 「君の事なら、何でも知っているさ。……盗み出す目的があるから」 「盗み出すって、アタシ、を……?」 先程も言ったはずの言葉に、少女は益々目を丸くして男を覗き込む。 ゴーグルで顔半分は見えないが、気配から嘘を言っていない事はわかった。  「そうだ」 男がそう言うと同時に、どこからか低い振動音が響いた。  此処は部屋から出ようにも簡単には出来ず、侵入も同じだ。 男が入った事で不法侵入を知らせる警報が鳴ったのかと思い息を飲むが、目の前の男は素知らぬ顔で片手を軽く上げる。 その手首には、微かに振動している腕時計がはめられていた。 男が腕時計に何か操作すると振動が止まり、「時間を掛けすぎたか」と小さく呟いた。 男は顔を上げ、もう一度少女を見つめる。 「さて、盗ませてくれるかい」  少女に訊いてはくるが、断る事をはばかるような自信に溢れた言葉。 このまま、男に盗まれれば諦めていた検査も監視もない自由が手に入ると淡い期待が胸に広がると同時に、それは不可能だと頭の中で警鐘が響く。  盗まれた所で、また同じような生活になるのがわかる。 検査に監視、研究対象。 欲しくもなかった特異体質の所為(せい)で。 それに、まだ此処には少女のたった一人の肉親、弟が残っている。  唇を噛み締め、ギュッと両手を握りながら何かを堪えるように首を横に振る少女に男は小さく息を吐いた。  「君が、嫌だと思う事はしない。さあ、行こう」 少女を宥めるかのような優しい口調は、少女に母親を思い出させる優しい口調だった。 男の言葉に、嘘はないと直感する。 それでも、弟を想うと素直に男に着いていくのははばかられた。  「…あ、アタシ、行けないッ。弟を……、クリスを……」 絞り出したような小さな声で少女は男に答える。この部屋よりもっと上の階層にいる弟。 少女よりも優れた特異体質を持ち、研究者達に何よりも大事にされている弟。 滅多に会う事が出来ないが、弟が研究者達に必死に頼み込む事で何とか会える弟。 母に似た優しい顔立ちで、柔らかく微笑んで、お姉ちゃん、と呼んでくれる少女の宝物。 その弟を一人残して此処から盗まれる訳にはいかない。
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