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(賢者殿は、隠者の類なのかな)
兵士の基本を叩き込む軍学校では、アルスは敬愛する男の癖に美人と評判の上官が、
『学者・賢者の中には人との接触を極端に嫌がる"隠者"もいます』
と座学で教わったのを思い出します。
どうしても人と話すのが苦手で、わざわざ姿を消す魔法を会得する術者もいるとのことでした。
『姿を消す魔法を身につける努力をするぐらいなら、対人コミュニケーションを磨く努力をしたらどうなんでしょう』
話を聞いた時、魔法が全く不得手なアルスはそんな意見を、美人な上官に口にしていました。
すると困った笑顔を浮かべられて、優しく白い手袋を嵌めた手で、頭を軽く撫でられます。
その時の事を思い出しながら、新人兵士は今一度口を開きます。
「賢者殿、姿を隠す魔法をお使いですか?」
ただ、今はこのままでは埒があかないので、アルスは敬礼したまま尋ねます。
「体、休めていいよ。ワシ、堅苦しいの嫌いなんだ」
声の主はアルスの問いには答えず、敬礼を止めさせ、信じ兵士は声の発信源を探します。
(確か、あのぬいぐるみの方から聴こえてきたような)
しかし、ぬいぐるみの方からは人の気配らしいものはしません。
「姿を消すなんてそんな面倒くさい事、ワシはしないよ~」
(人はいない、あれ?)
椅子に座っている、丸眼鏡をかけたウサギのぬいぐるみの口元が、ダイナミックに動いたようにアルスには見えました。
ちなみに今は、逆三角形の鼻をヒクヒクとさせているように見えます。
(やっぱり昨日、1人で配属先に行くのに緊張して眠れなかったからかな)
「いけない、疲れている?!」
アルスは、自分にしか聞こえないくらいの小さな声量でそんな言葉を思わず口に出していました。
「そんなにお疲れなのかな?」
(うわ、やっぱりダメだ。メガネウサギのぬいぐるみが心配そうな顔しながら、自分の前にたっている、いや、浮いてる!)
「んーっと。さっきから心の声が、顔の表情でだだ漏れだぞ、アルス・トラッド君」
丸眼鏡をかけたウサギのぬいぐるみが、本当に宙に浮いてアルスの目の前にいました。
「うわああああ?!」
アルスは大声を出して、思わず後ろに仰け反ってしまいます。
「はい、こんにちは」
ぬいぐるみとばかり思っていたウサギは、余裕綽々といった感じに、ポテっと書斎の床に足を着けて、仰け反っているアルスを見上げていました。
そして後ろ手に肉球がついた手を組み、二足歩行で元いた椅子のある場所に戻ります。
「よっこらせっ、と」
と、少々年寄りくさい声を出してピョンとジャンプして、最初のように椅子に座りました。
「アルス君、配属先へ到着、ご苦労さん。ワシが、君の上司となる"賢者"だ」
ウサギは、つぶらな瞳を細くし、口角を上げて、どうやら微笑んでいるようでした。
「うっ、うさ、ウサギが」
新人兵士が驚き言葉がどもるのも、どこ吹く風とクルリと椅子が廻して、ウサギはアルスに背を向けます。
「ん?ウサギが喋っちゃたら、そんなにショックだったかな?。
こう言っちゃなんだが、姿隠してる"賢者"達よりは、ワシの方がまだマトモとは思うがね~」
アルスは驚きで鼓動の早まるのを体感しつつ、胸元を手で抑えて、仰け反っていた体勢も戻し、やっとの思いで声を出して尋ねました。
「その姿は、魔法なんですか?、えっと、魔術?」
「うん。魔法というよりは魔術~、この国では禁術だよ~」
そう答えたウサギの上司は、何やら書き物を始めたらしく、椅子に座った後ろ姿しか見えない、アルスの方からでも、長い羽ペンが動いているのが見えました。
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