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明良の口が一瞬止まり、すぐに咀嚼を再開する。
「うん、楽しいよ」
嘘であった。
そもそもクラスメイトに心を開いていない彼が、どうして学校生活を楽しいと思えようか。
唯一会話を交わすのが、理事長秀紀の娘である美姫なのだ。
中には彼と少なからず因縁のある生徒もいない事は無いのだが、気付いているのは明良だけで、彼自身今は関わる気も無いので、一切会話を交わしていない。
どころか、おそらく向こうは彼の名前を覚えているかすらも危うい。
それでも嘘を吐いたのは、紫苑に心配を掛けたくなかったからだ。
今まで散々心配を掛けさせてきた明良は、もう姉を不安にさせたくないと思っている。
「…………そう」
多少間を置いてからゆっくり頷く紫苑。
明良はそれを見て、ズキンと心を痛めた。
彼女に嘘を吐いたという罪悪感からくる痛みではない。
寂しげに目を伏せる彼女を見て、嘘がバレてまた心配を掛けさせてしまったという事実からくる痛みだ。
彼は自分の無能を悔やみ、静かに歯ぎしりをした。
「…………おとうとくん、ごめんね?」
唐突に、紫苑が言い出す。
「な、何が?」
謝罪の意味が分からず、焦る明良。
紫苑は申し訳なさそうに表情を曇らせながら続ける。
「お姉ちゃんが家から出られないせいで、いろんな事をおとうとくんに押し付けてる」
「い……いや、好きでやってるから良いんだって。それに、家事も取材も楽しいからさ」
明良の言う取材とは、紫苑の書くライトノベルのための物だ。
彼女は『木原紫苑』という偽名を使ってライトノベル作家をしている。
しかし、家に引きこもりっきりの彼女では、いろいろ出来ない事があるのだ。
それを紫苑の代わりに明良がやっている。
彼はこれを重荷とも迷惑とも面倒とも取らなかった。
自分の存在が彼女にとって重荷であり迷惑であり面倒であると思っているからだ。
そんな自虐的な考えを、そのまま紫苑が思っている訳が無い。
それは彼女の謝罪からも分かる。
自分の言葉を否定されても尚、曇った表情を浮かべる紫苑に、彼は優しく重ねる。
「ならさ……笑ってお礼を言ってよ」
「え……?」
「俺が好きでやってるんだからさ。それに、ありがとうの一言で俺は無敵になれるから」
これは嘘では無い。
姉の笑顔こそが、彼の行動原理であり、活力源であり、生き甲斐だからだ。
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