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「でも、僕……」
僕の声に野崎さんは眉を上げた。
「ベースですから」
目の前には、奥歯を噛み締め、大きくさせた鼻の穴から酸素吸引と二酸化炭素の排出を小刻みに繰り返しつつ、見開いた目は俊敏に泳ぎ回らせているおっさんが立っている。
額からは霧吹きでも吹きかけたかのような汗を分泌していた。
そして、吐く息程の声を出した。
「ベース?」
「ベースです」
「ギターじゃーー」
「ベースです」
遥か天高く飛び立った何かを追うように、眼球が上を向いた。
口元は油の切れた歯車のように、カクリカクリと開閉を繰り返している。
「……野崎さん?」
返事はない。
ただ、少しばかり泡を吹いている。
「だ、大丈夫ですか?」
やはり返事はない。
野崎さんの体が、立ち上る煙のようにユラリユラリと揺れ始めた。
「野崎さん! しっかりしてください!」
慌てて両肩を掴み、気の抜けたおっさん人形の名前を呼びながら揺さぶった。
「野崎さん! 僕、やります! しっかりしてください!」
その時、目の奥へと流れ込んでいた黒目が戻り、僕を捉えた。
そして、泡を溜め込んだ口は、本当か? と発した。
「本当です」
「しかし、信はベースなんじゃあ
……」
「そうですけど、高校の頃はギターやってましたし、少し練習すれば今でも弾けます」
じゃあ決まりだと、顔中のパーツを中心に全て寄せて、恐らく野崎さんは笑顔を見せた。
口元には、まだ泡が溜まっている。
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