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でも、そうで無いことはすぐ分かる。彼には、そのテの男の匂いがしない。むしろ清潔で端正な香りが微かにして、もしかしたら貴族なのではと思ったりする。
貴族がどうしてあんな所に、粗末な身なりで倒れていたかと訊かれたら困るけれど。
記憶を失っているせいか、サリは今までのどの男とも違っていた。起きて動けるようになると、家事や店の手伝いを進んでした。元来、働き者なのだろう。それでいてアタシを頼り、どこまでも慕ってくる。
アタシは、こんなサリが可愛くてたまらない。このまま、いつまでもいたいと思うようになった。サリの耳飾りには、彼の生まれた地の名前が彫られていたけど、アタシはそれを返さず話さなかった。秘密にして、そっと隠した。
知り合いには、サリは耳飾りの無いローティだと伝えたので意見する者もいたが、もちろん聞く耳を持つ必要もない。
そうして、夏が過ぎ秋も深まろうとしていた。
* * *
「残念だったね。でも、また次があるさ」
サリの言葉にアタシは我に帰った。遅い昼食を、向き合って取っている最中だった。
「え……次って?」
聞き返すと、水色の目をしばたかせる。
「だから……御館への御用達」
ああそうだった。せっかくの朗報を、すっかり忘れていた。アタシは微笑むと、目配せした。
「ごめん。早く言えば良かった。見事通ったよ。来週末から搬入だ」
サリの顔が、ぱあっと輝いた。テーブルを回って来ると、アタシの頭を抱き、顔中に口付けの雨を降らせる。
「おめでとう!! まずは夢が叶ったね!!」
そう、今日はアタシの夢の第一歩が叶った日。イディン一美味しいパンと作るという夢。チェルキスのパン屋『ベーカリーとらや』は、とうとう領主から御用達のお墨付きを貰ったのだ。
サリは今夜は御馳走だと、思いついた献立をうきうきと言い並べている。でもアタシの笑みは中途で止まったままだった。喉元に突きつけられる言葉。
――いずれ、奪う者が来る。
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