或る夏の日の出来事。

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 なんで? 自分は何かをしてはいないはず、と言ったら、女の人は、 「私が本を読むのを助けてくれた。高いところの本を、あなたが取ってくれた。それだけでも、私は楽しかったんです」  たったそれだけの出来事が、楽しい?  何を言っているんだろう、この人は。 「人としているとね、色々な人と接点が生まれるます」  女の人は本から顔をあげて、僕に向かって話しかけてきた。 「どんな人でもすれ違い、出会い、ふれあい、話し、見て、聞いて、感じて……。とかく、人は、『必ず』一度は人と出会うのよ。それがなければ人は成長しないし、育ちもしません」  一言で今の事を言うんであれば、とその人は前置きして、 「経験がなければ、人は何もできないの」  そういったら、バスがいつのまにやらやってきた。  あなたはこのバスに乗るんでしょう? 女の人は訊ねると、僕は頷いた。 「じゃあ乗らないと。ここで私と話していても、何もなりませんよ? バスはそんなに、長くは待ってくれません」  それを聞いて僕はバスに乗り込んだ。バスは僕以外の乗客は居なかった。 「じゃあ、またどこかでね。お元気で」  そういって女の人は停留所に残って。  僕を乗せたバスはドアがゆっくりと閉まって。  そして走り出した。  女の人は見えなくなるまで僕を見つめていた。  その日、アパートに帰ってきて、早速小説を書いた。  今までにない位良いできだと思う。  その日の夕食はざるそばだった。  暑かったし、もう一度ざるそばもいいと思った。 ※ 八月二十三日  古い日記を見つけて読んでいた。  あれから何年経っただろうか。  僕は一応小説家になってはいるけれど、そんなに売れてはいない。  新作を出し続けてはいるけれども、あんまり数はいっていないらしい。  けれど、毎回新刊を出したとき、必ず一冊は売れている。  編集者さんが言うには、古い茶色の大きなトランクを持った人が、必ず買って行っているそうだ。  偶然にも、彼女が僕の本を読んでくれている事が、うれしかった。  きっと、あの本棚の上に置いてあって届かなかったから買いに来たんだろう。  それにしても暑い。やっぱりこの田舎の夏は暑い。  今日も夕方に散歩をして、あの児童公園に行ってみれば誰かに会えそうな気がする――  
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