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「これで良し、っと…」
テーブルに弁当箱を並べ、ちらりと時計を見れば小さく漏れる溜め息。
兄の席には未だ朝食が手を付けられることなく並んでいる。
「アンー、そろそろ起きてー」
扉越しに声をかけても、兄からの返事は無い。
いつものことだと困ったように頭を掻けば、すう、と藤乃は息を吸い込んだ。
「アーン! 安斎ー!」
「うるせえ!!」
怒鳴り声と、何かが扉に衝突するような鈍い音。あらかた枕が八つ当たりの犠牲にでもなったのだろう。
兄は外面は大変良いのだが、素がこれなのだ。
自分が家事当番でさえなければ朝も遅い。二、三度起こしてからようやっと怒鳴り声と共に起き上がってくる始末である。
むすっと不機嫌を丸出しにした顔で自室から出てきた兄の姿に、いつも上手いこと猫をかぶるものだと思えば、出てくるのは苦い笑み。
「おはよう、アン」
「ん」
「朝御飯、早いところ食べちゃってね。弁当はそこに置いておくから」
洗面所へと向かう兄の背に声をかけ、藤乃はひとつの弁当箱を鞄へ、もうひとつを紙袋の中へとしまいこんだ。
テーブルに残ったのは兄のものがひとつだけ。
それからソファーに放っておいたコートへ袖を通し、薄桃色のマフラーを首に巻く。
未だ眠そうにリビングへ戻ってきて食事を始めた兄の視線が、早々に外出準備を済ませ鞄を背負う藤乃へ向き、薄水色の紙袋へと向けられた。
「毎度よくやるな」
「ふふ、アンだって人のこと言えないんじゃないかな?」
「…るせぇ」
卵焼きをつつき黙り込む兄の姿にくすりと笑えば、上機嫌に弁当箱の入った紙袋を手に持つ。
「フジ」
「ん?」
玄関へ向かうべく兄の側を通り過ぎようとした藤乃は呼び止められ、顔だけでそちらを振り向いた。
「溝端さんによろしく」
呼び止めた本人である兄はこちらを見るようなこともなく、つついていた卵焼きを咀嚼していた。
藤乃は嬉しそうに目を細め、その口元は柔らかに笑みの形を描(えが)く。
「…うん、ありがとう。じゃあ行ってきます」
遠ざかる足音。
玄関の扉が閉まり静かになった空間で、兄はひとり、ふっと微かな笑みを漏らした。
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