歩く人達

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 老人はピンクの空の下にいた。  衰えた足は歩く事も叶わず、車輪に運んでもらわねばならない体は重くて仕方がない。いよいよ毛様体も働かなくなり、空を覆っているであろう花びらは視認できぬ。空は一面ざわめくピンクだった。若年期に打ち込んだのは、はて、何であったか。 「佐野さん、桜ですよ」見知らぬ白い女性が両手一杯のソメイヨシノの花弁を老人に差し出す。「綺麗ですね」  しかし老人に反応はない。耳が遠いためか、はたまた女性が初対面の人間だからなのか、理由はわからない。興味を示さない老人だったが、女性は微笑むと桜の花びらを空へ返した。ちょうど一陣の風が吹き抜け花びらを攫うと、次いで吹雪が二人を襲った。その後川に着水し、花弁達は水流に揉まれ魚につつかれ海へと向かう。  川面も一色に染められていたが、その隙間に映る人影が二つと二つ。老人と女性、それとまた老人と子供。小さな影は、静かに座る影に駆け寄ると「さくらー!」と花びらを頭上へ放った。 「すみません、うちの孫が……」  老人は子供の肩を引き車椅子の老人に頭を下げたが、彼は微笑した。 「きれいだね、サヨ」  消え入りそうな声は誰にも届かず、ピンクの中に消え、虚ろな瞳はただ空へ向かう。微笑みを携え、彼は目を閉じた。愛しき日々が浮かんで、消えた。  不思議なこともあるものだ。孫の手を引き川の上流の方へ向かうと――つい数分前に桜を見た筈なのに――目前には紅葉のトンネルが待っていた。脳の若さには自信があったのだが、もういい加減歳なのかもしれない。桜は幻だったか。先程の老人の顔も靄がかかったように思い出せない。妻に、どんな人物であったか問おうと辺りを見回し、ハッと気づく。彼女はつい先日他界したのだ。 「どうしたの、おじいちゃん?」 「なんでもないよ」  余生は案外短いのかもしれない。若い頃から続けてきた趣味も引退したし、体はどんどん衰えていくだろう。しかし、未来を担う種が側にある。妻の下へゆくのはそう怖くなかった。  
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