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あれは穏やかな秋の日だったか。息子に高級料理をご馳走になった日は。妻と共に川沿いのベンチに腰掛け、いつまでもこうしていたいねと肩を寄せ合った日は。その日妻は涙を流した。翌朝、彼女は目を開かなかった。自らの死を悟っていたのだろうか。少し肌寒い秋風に散りゆく紅葉は、彼女を連れていってしまったようだった。
ちゃんと覚えているではないか。忘れる筈もない、生涯愛した女性。そう遠くない未来に、君の下へゆくよ。
カタン、と硬い音がして我に返る。赤い絨毯の上に携帯電話が落ちていた。男性の背中が見えた。
「ちょっと、落としましたよ」
屈むのは少し腰に悪い。携帯電話に貼られたプリクラには仲の良さそうな男女が写っていた。何やらフワフワした文字が書いてあった。
「おっと危ない、ありがとうございます」
急いでいる様子の彼は紅潮した顔を綻ばせ、携帯電話を受け取った。これも何かの縁か。少しお節介な心が芽生えたので口を開く。
「奥さん大切にしてあげてくださいね。きっと幸せな人生になります」
男性は少しキョトンとしていたが、子供の手を引く老人の言葉を聞き入れる。
「もちろんです。死ぬまで愛する気ですから」
嘘偽りはない。両親が俺を愛し、彼女が俺を愛し、俺が息子を愛するように、俺が死ぬその日まで彼女を愛そう。
「悪い、待たせたな」
そういえばおかしいな、さっきまで紅葉を踏んでいた気がしたのだが。しかし息子を待たせていたこの川岸は何の変わりもない、夏の生温い風が吹く場所だ。あまり気にしないでもいいか。
「ほら、付けてやろうか」
ポケットから小瓶を取り出す。中には何匹もの元気なミミズが入っている。男は息子の釣竿を取り上げると、その釣り針にミミズを刺した。自分の物にも同じように餌をつけ、川に投げ入れた。後は待つのみだ。
こうしていると昔、父と共に竿を握った日が思い出される。親父は魚が自分の竿に掛かると俺に渡してくれた。あの力強い体躯は俺が成長する糧にされたように、時が経つにつれてどんどん萎んでいった。俺もいつか親父のようになるのだろうか。ただ、この息子の糧になるのなら本望だ。
「マサト、この竿頼む」
「任せろー」
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