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いいね、私の“名無し”。
男はそう言うとするりと身を引き、首に回されていた手もすっと離れ、たちまち姿は消えていってしまった。
後に残ったのは、すっかり冷えきってしまった幼い少年と、少年を包む静寂のみだった。
男が消えた後もしばらくその場に立ち尽くす少年は、ぼんやりと虚空を見上げていた。
――――そうして、あの邂逅から十一年が経ち。
契約日の十六年目。 目の前に現れたそれは、あの時のまま。
今はフードを脱いで、漆黒の髪の間から覗く、あの林檎のような、薔薇のような、血のような深紅の瞳が真っ直ぐこちらを見つめている。 眼差しは優しいのに、その奥に宿る光はまるで獲物を見る野獣のようにぎらついている。 その熱を、眼差しを嫌だと、怖いと感じない。 むしろ。
「契約の時がきた」
囁くように告げたその声音に、ぞくりと背筋が震える。 それは恐怖に似た、別のなにかで。
ただ見つめ合うだけで何か全てを満たされていくような、奪われていくような浮わつく思考も。 震えるのに逃げようとも動こうともしない身体に。 よくわからない何かが巡って廻って、息をすることも難しくなってきた。
目の前の闇はゆるりと目を細めた。 その目が、あの時と重なった。 息を呑む。
「契約の履行を。 時は満ちた。 約束の代償を、貰いにきた」
「…………」
「――――そう、十六年。 お前はよく耐えた。 誰も、両親自身からはじまり誰もがお前を拒絶した。 お前という存在を認めず、受け入れず、拒絶し、無視してきた。 その仕打ちを、よく耐えた」
溜め息混じりに言う闇の声は、歓喜に満ちていた。
さくりと闇が一歩近づく。 さくりさくり。 ゆっくりと互いの距離が縮まっていく。
「悲しかっただろう。
辛かっただろう。
苦しかっただろう。
誰にも認められない存在と、一番はじめに両親から突き付けられ、誰にも相手にされない。 怒りも憎しみも、ぶつける相手がいない。
虚しかっただろう」
闇の言葉が心を揺さぶる。 一つひとつが、真実己を想って、想いが込められているとしっかりと感じるから。 自分のぼろぼろに傷んだ心をそっと癒してくれるかのようなそれに、視界が歪んだ。
闇の深紅の目がきらりと光った。
「耐えた。
もう十分に、その役目を全うした。
――――もう、十分だろう」
自分の心を犠牲にするのは。
全てを理解している
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