「今夜降る奇跡の下で」

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杉浦紅葉。 スギウラモミジ。 たった今、順から教えてもらった名前を口の中で繰り返す。彼女の横顔が、ひらめきのように脳裏に浮かんだ。幻影だったあの人が、これで名前を得たわけだ。 「なにニヤニヤしてんだよ。秋良」 いたずらな笑みを作りながら、順は僕の顔をのぞき込むようにして言った。別に、と平静を装いながら答えたものの、その時の僕の顔はやつの言葉どおり、間違いなくだらしないくらい崩れていたに違いない。 しかし今回ばかりは、それも仕方のない話だ、と思う。 なにせ、この数カ月間ずっと遠目から見ていて想うだけの相手の名前を知ることが出来たのだから。 彼女のことを最初に知ったのは八月の中旬。 その日はしゃれにならないくらいの猛暑で、例年と比べてかなりの数字を記録した日でもあった。大学は夏休みに入っていて、当然サークルの仲間たちは朝からみんなで連れ立って海へ遊びに行っていた。そう。補習で大学へ通わなければならなかった僕を残して。うだる、どころの話ではなく、むしろ焼けるとか蒸発するとかの表現の方がしっくりくるようなふざけた暑さだった。 だだっ広い教場には僕を含めても十数名ほどの人数しかなく、しかもそのほとんどが寝ていたり雑誌を広げているやつらばかりで、まじめにノートをとっている生徒は見る限りではほんの小人数だ。開かれた白紙のノートに手をついてシャーペンを回す。
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