そこには、何もなかった

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 あれは12月の事だった。  少年は補助付きの自転車を横目に、ただ漫然と帰路に向かっていた。 『お前の誕生日に新しい自転車かってやるよ。嬉しいだろ?おぉ?そうか。嬉しいよなぁ!』  幼少の頃、父の無邪気な強要に為すすべもなく頭を掻きなでられた記憶を蘇らせた。ポケットの中の両の拳は固く握られていた。ただ、それを振りかざす勇気もまた、両の拳に握りつぶされていた。  ただの見栄か恥じらいか、学ランの中にセーターを着込むことですら生徒に目を向けられると恐れた少年は、寒空の夕闇に、その内向性を溶け込ませて歩をゆっくりと進めた。  冬はすきだ。特に冬の夜は。何もかもが暗く寂しい。その寂しさが自分に合っている。冬は自分の一番の理解者だ。吹きすさぶ風も、街頭に群がる虫も、闇に埋もれていく自分ですら好きになれる。  顔もない、体もない、ましてや話したことなんて…くだらないことを言った。  そんな自分を当たり前のように受け流し時には受け止める。物言わぬ利口な犬のあの愛着と似たような…ああ、人とすれちがった。あの薄ら笑いを浮かべる人を思い出す…人間なんて…よそう。せっかくの帰り道だ。やっと1人になれたのだ…ん?  彼は一枚のコインを拾った。表らしき人物像が石か何か堅いもので削り消されかかっている。裏には大きな樹の模様が、小さなコインから溢れんばかりの存在感を示していた。  それをポケットにしまい、少年は密かに笑った。  そしてポケットの両の拳はゆっくりとほどけていき  彼は家路に着いた。
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