玉子焼き

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 薄く澄んだ冬の空──  寒い季節になると父が着ていた、首筋に羽毛がついたダウンジャケットを思い出す  冬の朝、仕事に出て行く父はハンガーに掛けてあるそのダウンジャケットを、乱暴に手に取りいつも眉間に深い皺を寄せていた  狭い台所には毎朝、母が焼いてくれる甘い玉子焼きの匂い……  母が生きていた頃の事を思い出すと  私の記憶の中に、必ずあの甘く心地好い玉子焼きの匂いが漂い始める  冷えた外気に触れるのが億劫な時でも、あの匂いの中で母が優しく微笑んでくれると、私はすぐに狭い家を飛び出した  硝子職人で無口な父と、明るく優しい母の元で一人娘の私は平凡な日々を送っていた様に思う  こうやって思い出してみると、あの頃の事はもうはっきりとは思い出せない  ぼんやりと幼き日に自分が送っていた、あの平凡だが何に追い立てられる事もない安らいだ気持ちだけが、頭に浮かぶ  ただ一つ鮮明に思い出す事ができるのは──  やっぱり母が焼いてくれた甘くとろける様な、玉子焼きの匂いだけである  平穏だった日々を思い出すと私の鼻腔を、いつもあの安心できる甘い匂いが刺激する ・
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