梅昆布茶と宝石泥棒

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 男が気にしている事件が起こる一日前。男は妻と一緒に、その地域でそこそこ有名な宝石店に来ていた。 「あなたぁ、これよ。この宝石が欲しいの」  妻は薄紫の小さなストーンが等間隔にはめこまれている指輪を指し、うっとりした声で言う。妻を魅了した指輪は、嵌めるだけで願いが叶うという、この店一押しの商品である。男は普段決して聞けない妻の甘い声に分かった、と泣きそうな顔に笑顔を貼りつけた。 「ありがとう、あなた。愛しているわ」  端から見ても胡散臭い妻の声は、男の中の何かを刺激した。  人が前を通る度に、キラキラと反射を繰り返す、宝石を鏤められたカウンターで男は会計を済ませる。人気の商品のため受け取りは後日らしく、書類を書くために唇を噛みしめながらペンを握った。  ペンをはしらせながら、昨日久しぶりに情事を迫ってきたのはこれの為か、とあらためて思い返す。やりきれない思いが身体(からだ)を這う。しかし、男が妻の思惑どおりに事を進めるのにも理由(わけ)があった。  男はこんな妻でも愛しているのだ。妻が他の男に股を開いている事を知っていても、この宝石はその男に会うために買わされた物だと分かっていても、男は妻を愛してやまない。  かといって、とりわけ男が人に話せるような妻を愛してやまない愛物語(ラブストーリー)があるのではない。ただ、純粋に、離れられないほど妻のことが好きなのだ。  男と妻は笑顔の店員に見送られながら店を出た。  できたてのパンをお客様の邪魔にならないように、手際よく並べていく店員やお客様をうまく持ち上げながら洋服を勧める店員など、透明の壁から覗く景色が歩く都度に流れていく。しかし、2人は周りに溢れかえっている娯楽店に立ち寄ることも、その景色を楽しむこともなく、真っ直ぐ前を向き、黙々とコインパーキングへと足を進めていった。  ふと、風に煽られやってきた焼き鳥の香ばしい匂いが男の鼻をくすぐる。妻との久しぶりの買い物に、何を話したらいいのかひたすら迷っていた男は、焼き鳥の匂いに背中を押され、ついに声を発した。 「あ、あのさ」 「ねぇ、あなた」  思い出の匂いに感化されたのか、妻も男と同時に口を開いた。
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