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それから彼女の希望で水族館に行って、海が見える公園で過ごした。
自動販売機で買ったジュースを飲みながら夕闇に染まる海を見ながら話をした。
他愛のない、いつでもできるような話だけど、彼女が楽しそうに聞くから僕はつい話し続けてしまう。
言葉が途切れると、彼女は何かを話し始めようとして口を開き、やめて下唇を噛んだ。
何度も繰り返されるその仕草を見てどうしたの、と聞けなくて僕は話し続けた。
彼女が言いたくなったときに口を挟めるだけの間を十分に空けるように注意しながら話したけど、結局彼女は何も言わなかった。
僕を見つめる彼女の表情から何か伝えたいことがあるのはわかっていたのだけれど、今の距離を壊すのが怖くて僕から切り出すこともできなかった。
やがて夜になって、ホテルに帰る彼女をホテルの入り口まで送った。
「今日は楽しかった。ありがとうございました。」
「こちらこそ、ありがとうございました。」
いつもならこの後、彼女は僕に背中を向け、もう一度笑って手を振って姿を消すはずなのに、今日は違った。
彼女は僕の顔をじっと見つめた後、縋るように擦り寄ってきた。
「どうしたの?」
「ううん。覚えておこうと思って。君の顔とか、声とか、匂いとか……全部。」
背中に回った手にぎゅっと力が入る。僕もその細い体を抱きしめ返した。
僅かに震える肩が、何かを恐れて泣いているように思えた。
「何か、あった?」
僕が聞くと、彼女はパッと身を離して笑った。その目に涙はなかった。
「じゃあ、さよなら。」
「あ、うん。」
彼女は背を向けて歩き出した。いつものように少しだけ手を振って、背筋を伸ばして歩いて行った。
すっかり姿が見えなくなってから僕はホテルを後にした。
さよなら。
彼女からそう言われたのは記憶にある限り初めてだと思う。いつもは「お疲れ様」、「またね」と言って別れるばかりなのに。
ほんの少しの違和感。それがチリチリと胸を焦がして落ち着かない気分にさせた。
だけど、もう確かめることはできない。彼女は帰ってしまったのだ。僕の知らない世界の彼女に戻ってしまった。
僕もまた彼女の知らない僕に戻っていく。
それから彼女が僕のいる世界に戻ってくることはなかった。
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