舞姫

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「以前、私がもっと幼いときに、お酒に酔った父がふとこぼしたことがあります。」 頭の中でぐるぐると感情が入り交じり交差する。 それを遮るがごとく、彼女は凛とした声で続けた。 「『君はわたしを許すだろうか、君は生きていてくれているだろうか。』と。」 わたしは目を見開いた。 それはまぎれもない、父からの母への言葉。 「父は、母と私を大切にしてくれています。 けれど、もう一人の女性を、きっと今も心のどこかで思っているのです。」 「・・・」 「だから、きっとあなたのお父様も、あなたのことを思ってくださっています。 私は、そう思います。きっと、そうです。」 何の根拠もない彼女の言葉。 だがそれはわたしの心に魔法のように響いた。 「『過ぐる日に 芽生えた命の 人生は 富士の姿に たとふべきかな』」 彼女は唐突に呟いた。かろうじて聞けるほどの細い声で。 知っている。この響き。これは日本の歌だ。 「これは、父が兄に贈った歌なんです。 『昔過ごしたとき、生まれた新しい命のこれからの人生が、 富士の姿のように大きく、美しく、気高くなりますように』って。」 ・・・あぁ、そうか、これが父のわたしへの言葉。 最初で最後の、父の言葉・・・。 「あの・・・?」 少女は不思議そうな顔をした。 わたしの頬には、一筋の涙が流れていた。 涙が、あふれてくる。 「・・・あ・・・いえ、すみません・・・。ありがとう。」 わたしは涙の流れ続ける顔で、精一杯微笑んだ。 妹への、最初で最後のあいさつだった。 わたしはその後すぐに少女と別れた。 たった20分の、だがとても長い時間だった。 わたしはもう会うことはないだろう父を思い起こした。 言葉を交わしたことのない、父の姿。 だがまぎれもなくあの歌はわたしにおくられたもので、彼は確かにわたしの父だったのだのだ。 だから・・・わたしはもう父をさがさない。 父の望んだわたしになるのは癪だが、それならわたしは富士の山よりも高く大きくなってみせよう。 父がこの世界のどこにいても、わたしを見つけられるように―― おわり
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