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「もち、OKよ」
ベッドの上に座って言う私に、彰檎は躊躇いがちに言う。
「ピアノ…安いのでいいです」
聞いた私は、ぽか~んとした。
「へ? ピアノ?」
「は………い」
「弾けるの?」
「す…少し」
私は、フッと立ち上がって、
「じゃ、あげる」
「え?」
彰檎君は、あまりに急な事だったみたいで、キョトンとする。
実は…。 このマンションには、開かずの間の様な一番大きい部屋があり。 そこには、ピアノが有った。 この部屋に前に住んでいた人が、引き払う時に置いて行ったのだ。
「このマンションは、全て防音だから。 いくら弾いても音洩れしないから、バンバン弾いていいよ」
「なんで、杏子さんはこの部屋にしたんですか? ピアノ…弾かないのに、鍵まで掛けて部屋閉めて…」
杏子は、グサッと言われた気がする。
「あははは…、このピアノが運び出すの面倒だからって大家も言っててさ~。 この部屋は中古で安かったのよね~。 ま、ピアノでも趣味にしてみようかと思ったんだけど~。 ぶっちゃけ合わないみたいでね、アタシには弾けないから…封印っ」
苦笑いして杏子は云う。 実際、本当に趣味を持とうと格好つけて、それこそセレブぶってやってみたが…。 まったく音感がなく、簡単な曲を弾いても、何を弾いてるのか自分で解らないままに撃沈した訳だ。
しかし…。
私の案内で彰檎君は隣の一番広い部屋に来た。
まだ明かりを付けないその部屋には、夕方の鈍い光が差し込む。
私は、廊下とのドアを大きく開き、明かりを部屋に入れた。
楕円形の洒落た洋風の部屋の中、中央にあるやや古めかしいピアノへ、彼は近付いて行く。
「これ…、凄いピアノだよ? …ほっ・本当にこれ弾いていいの? 杏子さん」
「うん」
ピアノに到達した彰檎君は、淀み無い手つきで蓋を上げた。
「綺麗なピアノ、…はぁ」
息を飲んで椅子に座った彰檎君。 ベランダが有る窓から、夕陽が差す中で。 その独奏は、静かに始まった…。 フィガロの結婚…アヴェ・マリア…タンホイザー…白鳥の湖と、クラッシックの名曲が続く。
眼を瞑り、何処までも静かに演奏する彰檎の顔は薄く微笑んでいた。
私は、その素晴らしいピアノの旋律に言葉を失って、風邪も忘れて立ち尽くしてしまう。
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