第弐話【邂逅】

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 明くる日も明くる日も雪は止まない。この数日の間に、何も知らない桜花に対して藤は(くりや)や井戸、囲炉裏(いろり)行灯(あんどん)の灯し方といった基本的な生活用具の使い方などを教え込んだ。  自身の置かれた状況を今ひとつ把握しきれていない桜花は、まるで体験学習のようだと呑気に思いながら覚えていく。その甲斐あってか、大体の勝手は分かるようになっていた。  ある日、ふと床の間に飾られている太刀が目に入る。臙脂色(えんじいろ)の鞘に、立派な(つか)のそれは魅入られるような禍々しさを感じさせた。これは本物だろうか、と思いつつ好奇心に抗えず、惹き付けられるようにそれへ手を伸ばす。  柄に触れた途端、まるで全身を電流が駆け巡ったかのような鋭い感覚に目を見開いた。 『死にたくない、まだやり残したことが……』  呻き声のようなものが頭に響く。この世のものとは思えないそれにぞくりと背筋は凍り、肌が粟立った。 「いやっ、」  思わず手にしたそれを畳の上へ落としてしまう。その音を聞き付けたのか、藤がやってきた。 「桜花、どうしたの。……刀に触れたのかい?」 「ご、ごめんなさ……、気になってしまって。触った途端に変な声が聞こえたんです」  藤は太刀を拾い上げると、震える桜花の前へ座る。 「変な声……?」  だが藤が触れても何も起こらなかった。悪い夢でも見たのかと思いつつ、手のひらを見詰める。 「夢、そうだ……。あの声は夢でも出てきたことがあった……。嫌、折角忘れていたのに」  まるで身体の芯から暴くようなその声には覚えがあった。幼い頃から繰り返し見てきた、両親から見捨てられる切っ掛けとなったあの夢の声である。  小さな声で恐怖に(おのの)く桜花へ、藤は太刀を再度差し出した。 「刀は思念体だ……。もし刀の声が聞こえたというのなら、桜花は選ばれたのかもしれないね。もう一度触れてごらん、きっと大丈夫だから」  その促しは何処か心地よい。まるで母に諭されているような感覚に包まれた。少しの躊躇いの後に、桜花はおずおずと太刀へ手を伸ばす。先程と同じように柄に触れた。  すると、不思議なことに先程まで感じていた恐怖がすうっと消えていく。まるで吸い取られたかのように何も無かった。それに驚きを隠せずにいると、藤は柔和な笑みを浮かべて桜花と視線を合わせる。 「刀は身を守るものだからね。きっと桜花を守ろうとしてくれるはずさ」  その時、脳裏に一瞬だけ藤に良く似た若い女性が浮かんでは消えた。その女性が藤に重なる。 「天候が落ち着いたら、山を降りるのだろう。その刀は桜花へあげる。俗世を捨てた老い行く私が持っていても宝の持ち腐れさね。それは薄緑(うすみどり)といって、古来から伝わる妖刀なんだ」  呆然と太刀を両手で持つ桜花の頭を撫でると、藤は一方的に言い残して別の部屋へ向かった。
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