第弐話【邂逅】

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 その夜、高杉は縁側に座りながら雪見酒をしていた。試合以来、何となく高杉への抵抗が消えた桜花はその横で言われるがまま酌をしている。  何か思うことがあるのだろうか、高杉は酒だけをひたすら煽り、無言で空を眺めていた。 「……もう疲れたのう。このまま何処かへ逃げてしまおうか。それともここで死ぬのもええかも知れんのう」  この明るさだけが取り柄のような男から、気弱な発言が聞かれたことに桜花は目を丸くする。 「何もかもままならん。このまま京へ向かったとて、何が変わるんじゃろうか。それならいっそのこと、」  一気に酒を飲み干すと、空になった盃を桜花へ向けた。早く次をつげと言いたいのだろう。だが、桜花は銚子を傾けずに、ただ高杉の横顔を見詰めた。 「……何があったか知りませんが、それで良いんですか」  高杉は赤ら顔ながらも、炯々とした鋭い眼光を桜花へ向ける。いつでもその腰の刀で人を斬り殺せるような酷薄さすら感じ、無意識のうちに桜花は身震いした。だが、毅然とした表情を崩さない。 「何……?君は女子(おなご)の癖に僕に意見するんか?(まつりごと)のことは女子には分からんけえ。黙って酌をすりゃあええ……」 「心配して言っているのに、それは酷いです。私は確かにただの女ですが……」  ごくりと息を飲み、深呼吸をする。男女は平等なはずなのに、女だからと壁を作られるのは寂しい気持ちになった。その反面、心配する気持ちと共にむくむくと反骨心が湧き上がる。 「逃げても良いことなんて何一つ無いって事は分かりますよ。結局は現実と向き合うしか選択肢は無いんですから」 「君に何がわかるというんじゃ!僕ァ、国のために命を賭けて……」  高杉は激昂するが、桜花はそれでも怯まなかった。目の前の男が恐ろしいとは思えず、むしろ助けを求めているように思える。 「死んで何かが変わるならそうすれば良いです。でも、貴方が生きた方が何か出来るのではないですか。……高杉さんのことはよく知らないけれど、何となくそう思います」  冬の空気のように、凛とした声が高杉の鼓膜を刺激した。その時、高杉の脳裏にある言葉が浮かぶ。 ──死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。  それは生涯の師である吉田松陰(よしだしょういん)の言葉である。死ぬことで志が成されるのであれば、いつでも死ぬが良い、生きることで大業の見込みがあるのであれば生きるが良い。そのように言っていた。  頭を殴られたような気持ちになる。あれほど尊敬していた師の無念を晴らそうとしていたのに、このようなところで諦めてしまおうとするとは。そして、このように年端もいかない娘の言葉に師のそれを重ねて心が揺れるとは── 「は、はは、」  高杉はだらりと俯くと、肩を揺らして笑い声のようなものを上げる。 「あっはは、ははっ。この高杉、耄碌(もうろく)しちょったわ!そうじゃのう、死ぬるんはいつでも出来るのう」  泣き笑いのような声で笑うと、嬉しそうな笑みを浮かべた。桜花はポカンと呆気に取られるものの、元気になった高杉を見て微笑む。 「よし、この雪が止んだら明日にでも京へ向かう!桜花、君も山を降りるんじゃろ?着いてくるとええ。ただし、その後のことは面倒見れん。直ぐに国へ戻ることになるけえ。それでもええか?」  国へ戻る。つまりそれは脱藩の罪を償うということだ。政に口を出すためにはそうするしかない。 「はい。よろしくお願いします」  この時、何故か桜花の胸には一抹の不安が浮かんだ。だが、それを払拭するように首を横に振る。
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