2756人が本棚に入れています
本棚に追加
「一体どねえしたと云うんじゃ。しっかりせい」
何とか高杉に支えられて立ち上がった桜花は、うわの空だった。顔色は悪く、何かに怯えているようにも見える。まさに挙動不審という言葉が正しい。
幸いにして人通りは少なかったが、近くを通る町人は物珍しそうに、あるいは訝しげに二人を横目で見ていた。
桜花はやっとの思いで口を開く。だが、その声は情けないほどに掠れ、震えていた。
「高杉さん……ほ、本当に此処は京都ですか。何かの撮影じゃ……」
「何言うちょる、紛うことなき京じゃろう。さつえい、とは何じゃ?」
「だって……。だって、こんなの、」
遠い昔の日本のようだと口にしかけて閉口する。ふと、藤の言葉が脳裏に浮かんだ。
『それって、神隠しか……はたまた天狗攫いじゃないか?』
それを言われた時は半信半疑で聞いていた。そのような事ある訳が無いと心のどこかでバカにしていたのかもしれない。何処のおとぎ話だと思っていた。だが、この光景を目の当たりにすると、途端にその話に信憑性が出てくる。
「あの、高杉さん。今は……何年でしょうか」
「元治年間じゃ。先程からどねえした、可笑しいぞ」
元治年間がいつを指すかは分からないが、少なくとも元いた時代では無いことだけは分かる。そして高杉の声色は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えない。それがより桜花を絶望の淵へ追い込んだ。
──もう帰れない。帰る場所がない。
──どうしよう、どうしよう。どうすればいい。
すっかり黙りこくってしまった桜花の顔を高杉が覗き込む。ささくれだった指がその頬を摘んだ。その刺激でハッと我に返る。
そして目に薄らと張った涙の膜がじわりと厚みを増し、瞬きと共に高杉の指へ伝った。
「高、杉さ……。どうしよう。私は、どうすれば、」
それを見た高杉は周囲を見渡すと、桜花の腕を掴んで人気のないそこらの神社へ向かう。そして境内にある適当な岩の上へ座らせた。
「何があった、落ち着いて話してみい」
「此処は……、私の知る京都じゃないんです」
無論、その面影は残っている。だが、殆ど別物と言っても過言では無かった。
「まさか……。ほんまに天狗攫いに?僕が言い出したんじゃが、ありゃあ眉唾ものじゃと思うちょった」
高杉はジッと桜花の目を見る。琥珀色の瞳は怯えており、嘘を吐いているようには見えなかった。
「本当です、本当に知らないところなんです。信じて下さい……!」
「待て待て、誰も信じんとは言うちょらんじゃろう。京のことだけか?それとも今の世のことも分からんのか?」
その問い掛けに、桜花は俯く。ただ分かりません、と呟いた。
「今は徳川幕府の治世じゃ。っと、これくらいは分かるかのう。ペルリが浦賀に来たのは知っちょるか?」
その言葉を聞き、桜花は顔を上げる。徳川、ペルリ。歴史に詳しくない桜花でも、流石にこの単語は分かった。そして、それらからここが江戸時代であるということを察する。
その様子を見た高杉は、肯定と判断した。
「知っちょるようじゃな。ちゅうことは、長い間攫われちょった気はせんのう。ただ混乱しちょるのか、それとも天狗さんに記憶を取られてしもうたのか……」
高杉はあくまでも天狗の仕業だと思っており、嘘だと言ってこない。桜花にとってはそれが救いだった。
「夢……、これは夢でしょうか。こんなことって、」
「とりあえず家じゃ。住んじょった家、分かるか?」
「多分。でも絶対に無いです」
「それでも行くぞ。自分の目で見て、納得せんことには悔いが残るけえ」
その言葉に、桜花は瞳を揺らす。もはや帰る場所は無いと分かっていても、僅かな希望を信じたくて頷いた。
最初のコメントを投稿しよう!