第参話【岐路】

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「尊攘が聞いて呆れるのう」  大きな溜め息と共に高杉は茶を啜る。桜花はその横顔をおずおずと伺った。 「あの、ソンジョウ……とは何ですか」  その問いかけに、高杉は愕然と桜花を見る。 「尊皇攘夷(そんのうじょうい)のことじゃが……。そねえな事も知らんとは……。まさか、ほんまに天狗さんに記憶も持っていかれよったんか」  どこぞの農民であっても、天子様(天皇)を尊び、夷狄(いてき)を打ち払う──尊皇攘夷の言葉くらいは知っているはずだ。武家の女子のような出で立ちをしておきながら、それを知らぬというのは流石に記憶が無いとしか思えなかった。  思い返せば、藤が厨の使い方から何まで教えていたし、ペルリの質問をした時も知っていそうな顔をしていただけで肯定の言葉は出てこなかったことに気付く。 ──この娘は業が深いのか、それとも天狗に魅入られたのか。いずれにせよ、あまりに不憫じゃ。  身寄りもなく、生きる術を持たない女の行き先は大体決まっている。(くるわ)へ身売りをすることしかなかった。 ──天狗に隠された(おんな)として珍しがられれば御の字くらいか。だが、あれは見てくれと物珍しさで生きていける世界でもないしのう。それに、この高杉が拾った女が廓行きなど癪じゃ。  あれこれと考えを巡らせながら眉を顰めた高杉は、周りに人がいないことを確認する。茶屋の娘はいつの間にか外へ行ってしまったようだ。 「……いいか。世情に疎い者は淘汰されよる。今の将軍は誰か知っちょるか?」  高杉は声を低く顰めながら問い掛ける。桜花は小さく首を横へ振った。 「今は、十四代の徳川家茂(とくがわいえもち)じゃ。この日ノ本(ひのもと)は外敵から狙われよって、それに対して幕府は攘夷を掲げちょるそに、及び腰で何もせん──」  忌々しげに目を細めると、高杉は世情について語り出す。    時の老中の提案により、公武合体(こうぶがったい)という朝廷と幕府が手を組んで外敵へ立ち向かうという構想が打ち出された。その象徴として家茂に対し、天皇の妹である和宮(かずのみや)が降嫁した。しかし、その後も幕府は穏便に攘夷を進めようとし、外国船への攻撃を禁じたのである。  それをよく思わなかったのが、高杉のいる長州藩だった。幕府と長州藩の思想は対立し、長州藩は幕府ではなく天皇主権の攘夷を望み、裏から工作を図った。  しかし昨年、天皇や会津藩、薩摩藩を中心とした幕府を支持する勢力により、長州藩は政治の中心である京から追い出されることになる。これが八月十八日の政変と呼ばれる事件だった。 「追い出されたって……。つまり、高杉さんは今ここに居てはいけないということですか?」 「そうじゃ。この京には、見廻組(みまわりぐみ)新撰組(しんせんぐみ)ちゅう幕府の犬がおる。新撰組なんかは元は農民じゃったらしいけえ、ただの浪士じゃ。……まあ、捕まると面倒なことは変わりないのう」  高杉は足を組み替え、団子を口へ運ぶ。 「捕まると……どうなるのですか」 「獄行きか……、下手すれば死ぬるじゃろうな」  その言葉に、桜花はゾッと背筋に寒いものが走るのを感じた。現代では無かった、死がすぐ近くにいる感覚に身震いをする。  そしてあることに気付いた。そのような高杉を街中堂々と連れ回してしまっていたのだ。 「た、高杉さん。どこかへ隠れなきゃ」  途端に不安げになる桜花を見て、高杉は口角を上げる。 「大丈夫じゃ。僕ァ別に人殺しをした訳でも無いけえ、手配書も出回っちょらん。悪目立ちせんかったら、流石に誰も僕が長州のモンじゃとは思わんよ」  それもそうかと安堵の息を吐いた。同時に、やはり知らない世である現実が否が応でも突き付けられる。 「それにこの京には、僕の同志がようけ(沢山)おる。いくら追い出されよっても、此処は情報の全てが集まってくる場所じゃけえ。……ひょっとすると、君と同じ境遇の人間がおるかも知れんのう」  そう言いながら、高杉は目を細めた。
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