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その時だった。
「──諦めるな!駆けろ!」
前方から低い声が聞こえる。それはまるで消えかけた火を焚き付けるような、力強さすら感じさせた。桜花は乱暴に目元を拭うと、俯きかけた顔を上げて再び走る。
すると、小路から素早く人影が現れた。怯む間も与えないまま桜花の腕を掴んで思い切り引き寄せる。
「──!」
桜花は突然の事に声も出せずに、そのまま直角に小路へと引き込まれた。狭い道なのにも関わらず、慣れたように進んでいく。
「な、あ、あのッ」
「挨拶は後じゃ。駆けることだけを考えて!」
桜花の腕を引く人物から声が掛かった。素顔は見えないが、サラサラの黒髪がとても美しい、長身の男性である。
「は、はい!」
この際、形振り構っていられないと思った桜花は頷いた。
だが、桜花はその拍子に小石に躓いてしまい、勢いよく身体が傾く。
「あッ!」
しかし、桜花の身体は固い地面に直撃することなく、むしろ暖かく柔らかいものに包まれた。ふわりと香のような匂いが鼻腔を掠める。
「……大丈夫?」
男の声が頭上から聞こえてきた。抱き留められている、と瞬時に理解するのと同時に羞恥と驚きに顔が赤く染まった。
「す、済みませ──」
だが謝罪の言葉は途中で遮られる。男の手で口が塞がれたのだ。何事だと思い、男を見上げるとその視線は元来た道へと鋭く注がれていた。
「まだ近くに居る筈だ、探せ探せ!」
距離はありそうだが、新撰組が此処まで追ってきたのだろう。見付かったら一体どうなるのだろうと考えるだけで、顔から血の気が失せた。
「……今動くのは得策とは言えないな。此処で隠れていよう」
桜花は生唾を飲み込むと、小さく頷く。幸いにして、大きな樽と建物の影が二人の姿を隠していた。
とくんとくんと男の規則的な鼓動が聞こえ、不思議と桜花は心が少しずつ落ち着いていく自分に気付く。このように人の体温を感じ、鼓動の音を聞いたのはいつぶりだろうか。
──両親に見捨てられた私と仲良くしてくれる人なんて、居なかったから。
「──来る。静かに」
男は耳元で囁くと、更に桜花を強く抱き締めた。新撰組と思われる男たちの声が近くに聞こえてくる。色々な意味で桜花の鼓動の音が早くなった。
二人が隠れている樽の直ぐ横に足音がさし掛かろうとしたその時だった。
「新撰組の方ァ!向こうで斬り合いしてまっせ!」
そこへ焦りを含んだ町人の呼び声が聞こえる。
「ちッ、今日は一体何だってェんだ!おい、急ぐぞ!」
それに反応するように、新撰組は羽織を翻して走り去っていく。
桜花の頭上からはホッと息を吐く気配と共に、抱き締められていた腕が緩んだ。温もりが消えていくことに寂しさのようなものを感じた自分を恥じるように、桜花は男から離れる。
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