第一章 第壱話【記憶】

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「暑い…」  桜花の真上にある夏の太陽はカンカンに照っており、容赦なく体力を奪っていく。おまけに蝉がけたたましく鳴いており、余計に暑く感じた。  京都北部にある古寺までの交通手段は徒歩しか無い。桜花は水筒を取り、水分を摂ると再び歩き始めた。しかし徐々に足場は険しくなっていく。  山の天気はいつ変化してもおかしくはない。日が暮れるまでに目的地へ着いておきたかった。 「あれ…おかしいな。そろそろ着く筈なのに」  道を間違えたのだろうかと首を捻る。近くにあった鳥居を潜ると、あれほど晴れていた空に翳りが見え始め、進むにつれて霧が出てきた。  どんどんそれは濃くなり、視界を邪魔する。何かが出てきそうな程不気味な様子に、桜花は言い知れぬ不安を覚えた。  周囲には崖があり足場も悪い。この状態で歩き続けると事故に繋がりかねない。携帯電話を取り出すが、山奥だからか圏外の表示だった。これでは連絡の取りようもない。  引き返そうと後ろを向くが、その先は霧で真っ白になっており潜ってきた筈の鳥居すら見えなかった。 「何で……」  口の中がやけに乾く。胃が焼け付くような焦燥に駆り立てられたと思うと、恐怖が込み上げてきた。  その時である。何処からか音もなく前方から網代笠(あじろがさ)を深く被った雲水僧(うんすいそう)が現れる。この世の人とは思えないほどに気配が無かった。不気味な様に桜花は息を飲む。 「もし、そこな女子(おなご)。お主の魂は時の迷い人であるな」 「時の迷い人……?あの、もしかしてお寺の方ですか!?道に迷っているんです」 「お主を探している魂があちらに居た」  雲水僧は自身の来た道を指さす。会話が微妙に噛み合っていないが、焦っていた桜花はそれに気付かなかった。  もしかしたら寺の人が霧を心配して迎えに来たのかもしれない、と思った桜花は頭を下げると、そちらへ小走りで向かう。 「迷い人よ、時の加護を……」  雲水僧はその言葉を残し、すっと煙のように消える。  桜花は言われた通りの方向へ向かうが、一向に誰も出て来なかった。かと言って大声を出して野生の動物が出てきても困ると、声は出さずに歩みを進める。  やがて目の前には底の見えない大きな崖が出て来た。まるで地獄の底を覗いているようなそれに(おそ)れを感じる。  戻ろうと(きびす)を返そうとしたその時だった。背後から誰かを呼ぶ細い声が聞こえることに気付く。 「え……?」 それに反応して振り向いた瞬間、足元が崩れた。 「やば、」 体勢を崩し、崖の方へ倒れ込む。手を伸ばすが、虚空を掴むだけだった。身体はそのまま崖へ真っ逆さまに落ちて行く。  突然の事に悲鳴すら出なかった。バサバサと音を立てて、迫り来る枝を次々に折りながら落下していく。 ──嫌だ、こんなところで死んでしまうの?私はまだ"やり残したことがあるのに"。死にたくない、死にたくない!  薄れ行く意識の中、ふと幼少の頃に抱かれた母の温もりのようなものを感じ、まるで安心した赤子のように目を閉じた。
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