第伍拾弐話【甲陽鎮撫】

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 沖田に与えられた離れの寝所を訪れるが、そこに姿は無かった。  偶然廊下へ出て来た市村を捕まえ、沖田を知らないかと問えば、「大広間におります」と返ってくる。桜司郎の剣幕に驚いたのか、目を丸くしていた。  礼を言うと、急いでそこへ向かう。  戸へ手を掛けて開け放とうとした刹那のことだった。まるで留めるように、指先には大きな手が重ねられる。  沖田のことで頭がいっぱいになり、背後を取られていたことに気付いていなかったのだ。 「副──」  見上げた先に居た人物、土方を呼ぶ前にシッと人差し指が立てられる。  そして物音を立てることなく、そっと戸の間に隙間が作られた。  そこを覗けば、酒臭い部屋の中で絶えず笑みを浮かべながら、談笑へ応じる沖田の姿があった。 「──総司さんよう、随分と痩せちまったなァ。ちゃんとおマンマ()食ってんのけ?」 「ええ。存外私は元気ですよ。ほら、この通り」  そう言って立ち上がるなり、その場で四股を踏む。しかし、足元の戸板はカタンと小さな音を立てるだけだった。  シン──と部屋が静まる。皆がどのような反応をして良いのか分からなかったのだろう。  だが、誰かが「全然踏めてねえぞ」と揶揄うように野次を飛ばした。すると室内は笑いに包まれる。  それに対して沖田は困ったように笑った。だが、瞳には己への失望に似た色を浮かべている。  その様子を遠くから見ていた桜司郎は、肩を震わせた。気付けば頬には涙が伝っている。いくら旧知とはいえ、あのように笑いものになることは嫌だったはずだ。それなのに、怒りもせずに笑って過ごす彼が、あまりにも健気で哀れで見ていられないと思ったのだ。  土方の手を振り払い、構わずに戸を開け放つ。すると、部屋に居た全員が驚いたようにこちらを見やった。  その視線すら気にならぬと言わんばかりに、桜司郎はズカズカと入ると、沖田の袖を引く。 「沖田先生に話したいことが。急務故、失礼致します」  室内がザワつく前に後を追うように土方が入って来ては、早々に場を収めた。それに便乗するように、桜司郎は沖田を連れ出す。
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