第伍拾弐話【甲陽鎮撫】

14/20
前へ
/974ページ
次へ
「──否、引かない」  その言葉に皆が目を見開く。ただ、永倉と原田だけが真意を測るような視線を送っていた。 「引けぬ。引く訳には行かぬのだ……」  それはまるで己へ言い聞かせるように、何度も呟かれる。 「近藤さん、もう勝ち目は限りなく薄い。無闇矢鱈に大事な兵を失う訳にゃいかねえよ」  諌めるように、けれども言葉を選んで土方が穏やかに語り掛けた。今までは戦局の見極めを土方が行い、近藤は最終決定を下していた。今回もその彼が撤退を推しているのだ、それに従うだろうと誰もが思った。 「。忘れたのか、我らは幕府から直々にこの甲陽鎮撫隊の命を賜った。そして城を落とした暁には慶喜公が入城され、この俺が城主に………。君もそれを喜んだじゃないか」 「それァそうだが、あの時と今では話しが違う」 「違わん!支度金も砲台も頂戴したまま、おめおめと江戸へ引き下がる訳にはいかんだろう!敵からも、幕府は留める力すら無いのかと思われてしまうッ」  意地になっていた。否、意地というよりも実感が無いのだ。刀の腕で上り詰め、その上負け知らずで生きてきて、伏見の惨状を経験していない。しかし今や彼にその右腕は使えず、新撰組どころか幕府が大敗している。  それを受け入れることがまだ出来ないのだろう。 「……幕府の威光のために、俺たちに死ねってェのか」  原田は静かに言葉を吐いた。 「そうだ。我々は結成したその時に、上様のために身命を賭して戦うと誓ったでは無いかッ……」 「ああ、確かに言った。言ったさ。ただ、それが……今その時なのか?」  確かめるような声掛けに、近藤は少し怯んだ後に頷く。  それを見るなり、原田は目を瞑った。 「……分かった。近藤さんがそう言うなら、俺は乗る。あんたの道場が楽しくて、あんたを押し上げたくて、俺たちは此処まで来たんだからよ。これで乗らなかったら、男が廃っちまう。な、新八」  同意を求めるように、手を永倉の肩へ置く。すると、永倉は視線を彷徨わせた後に拳を固めた。  少しの沈黙の後に、小さく頷く。 「…………ああ。そうだな。此処まで来て、何もせずに引き返すってのも性に合わん。城を奪い返すのは無理だろうがな、江戸へ迫る時を稼ぐくらいは出来るか」
/974ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2759人が本棚に入れています
本棚に追加