第伍拾弐話【甲陽鎮撫】

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「…………皆の思いはどうなります」  思わず出た言葉は思ったよりも女々しい。女は感情の生き物だとはよく言ったものだ。溢れ出る思いを抑え込むことは出来ない、いや今抑えてしまっては後悔すると思った。 「……永倉先生達は、局長の指揮を遂行せんと必死に戦っていました。沖田先生は、局長のことが心配であの身体に鞭を打って行軍に参加したんです。土方副長は局長のために戦をしようと──!」  何処かで砲台の音が聞こえる。放たれた火で木が倒れる音が聞こえる。それに負けじと声を張り上げた。  もはや、己を見失いかけた彼には、情に訴えるしか方法が無い──そう信じて必死に言葉を繋いだ。 「今、ここで死んでしまったら、皆が後悔します!貴方を信じている人がまだ居ることを、ゆめ忘れられるなッ」  そこまで言い切ると、桜司郎は荒くなった呼吸を整える。  近藤は切なげに目を細めながら、その姿を見やった。 「…………そうか、俺はまだ皆を……」  ポツリと呟くと、苦々しそうに視線を落とす。 「……付けるべき始末が残っていたようだ。君の言う通りに、俺も撤退しよう。道を開いてくれるか」  その言葉は決して良い意味では無いだろう。だが、少なくとも今死ぬ気では無くなったことに一先ず安堵の息を吐いた。  そして、力強く頷く。 「お任せを。榊桜司郎、この刀にかけて局長を江戸まで御守りします──」  目立ちそうな陣羽織はその場に捨て置かせると、桜司郎は先陣を切って慎重に進んだ。  その間も、一言も近藤から言葉を発することはない。  やがて八王子に差し掛かった辺りで、土方と合流することが出来た。無論援軍などは連れていない。無事を喜んではいたが、早すぎる敗戦に眉間の皺を深くしていた。  だが責める言葉は一つも吐かず、ただ「良く無事だった」と言った。  近藤を無事に土方へと引き合せることが出来た安心のためか、途端に気持ちが緩む。来た道を振り返れば、夕陽を飲み込んでいく甲府の山脈へと烏達が吸い込まれていった。
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