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「もしもし」
僕が電話に出ると、木崎は落ち着いた口調で、「もしもし」と応えた。
「突然どうしたんだい? ずいぶん久しぶりじゃないか」
「ああ、久しぶりだな。俺も何かと忙しかったんだ。まあ、大作家先生に比べれば、俺の忙しさなんて大した物じゃないのかもしれないけどな」
「そんなことはないさ。僕は僕のペースでゆっくりと僕の描きたい世界を描き出せばそれでいいんだ。仕事を受けるのも拒否するのも僕の自由だ。よほど締め切りに追われている時でもない限り、書きたいときに書いて、書きたくないときには書かなくて済む。きっと、君に比べればずっと暇さ」
僕の言葉に、木崎は何も応えなかった。
僕と木崎の間には、電話を通して束の間の沈黙が流れた。
そして、木崎は唐突に、「ところで」と本題を切り出した。
「ところで、何だい?」
僕は尋ねる。
「お前は高橋先生を憶えているか?」
「高橋先生? 誰だったかな?」
「高校の時の数学の先生だよ。ほら、いつも生徒のことなんかお構いなしに黒板にいっぱいに数式を並べる先生がいただろう?」
「そういえば、そんな先生がいたな」
僕はそう答えながら、あの数学の教師の顔を頭の中に思い浮かべた。
たしかに言われてみれば、あの教師の名前は高橋といったような気がする。
しかし、今となっては、あの教師の名前など、何であってもよかった。
あの教師の名前が田中や佐藤であったところで、僕にとって何かが変わるというものは一つとして存在しない。
今の僕にとって重要なのは、どうして木崎が突然あの教師の名前などを引っ張りだしてきたのかということだ。
僕はそれを確かめなければならない。
「高橋先生がどうかしたのかい?」
「亡くなったそうなんだ」
木崎は短くそう答えた。
「どうして君がそんな情報を知っているんだい? 君はまだあの先生と何らかの繋がりがあったのかい?」
「特別な繋がりなど、何もないさ。だけど、俺の大学時代の友人の何人かは高校の教師をやっていて、その内の二人は俺たちの地元で教師をやっている。そいつらから聞いたというだけの話さ」
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