771人が本棚に入れています
本棚に追加
__東北の最南端に位置するわずか三万石の小さな国の名は、奥州水石藩。その国境(くにざかい)の山中でのこと。
真夜中の月が真円を描いたこの日。
青白い月が、鬱蒼(うっそう)と生い茂る樹々の合間を縫うように、その光を射し込んでいた。
道とも言えぬような獣道を照らす月の光は、この森をひた走る若者ふたりが、どうか道を間違える事のないようにと、微力ながら手助けしているようにもみえる。
「どうした寅之助、もたもたしていると役人供に追いつかれちまうぞ」
前をいく青年はそう言いながら後ろを振り返り、こと楽しげに走る。
まげを結わない歌舞伎の連獅子のような白く長い髪が、疾走する風になびく。
その前髪からのぞく左眼が、古い刃物傷によって塞がっていた。
この男を、人は『神谷の悪竜』と呼ぶ。
そんな彼の後ろを、まだその顔にわずかな幼さを残した少年が走る。
名は村山寅之助。
「竜、役人供の的はあんただっ。俺のことはいいから、さっさと山を越えてくれっ」
遠くから松明(たいまつ)の明かりと、数人の男の声が聞こえてくる。
どうやら彼への追っ手らしい。だが、少し前と比べて、その数はずいぶん減っている。
寅之助はそれを見ると、徐々に走る速度を緩め、ついに足を止めた。
「竜……あんたは俺にとって兄であり親友だった。これが今生の別れだなんて思わねえ」
袴(はかま)の腰に太刀一本を差した武家の次男坊村山寅之助は、竜へ背を向けると、迫る追っ手を前にして、ゆっくりと白刃を抜いた。
最初のコメントを投稿しよう!