それは坂の終わりへ

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 なんだ、記憶が二つあるとはどういう意味だ。嘘か、演技か?  いや、待て。そうか、そういう意味なのか?  冬美はずっと姉から逃げ家族から逃げていたのだから、自らの殻に閉じ籠っていたんじゃないか。それが意味しているのは、そう。彼女の暗い精神状態だ。  幼い頃から身近に大嫌いな存在がいた冬美は、どうだったのだろう。  毎朝学校に誘う声は、彼女の耳にどう聞こえていた?  人間の脳は、心はとても複雑だ。とても科学とやらでは解明しきれないほど、とても精巧で、万能で、しかして脆いものだ。  自分の認識したくないことだけを忘却したり、ありもしない仮想の話を作り上げたり。例はある。ならば彼女にも、そんなことも可能なのではないか。  常人では難しくても、彼女にはその能力を育む環境があった。  そう。思い込みが、妄想に囚われていたのは雪美ではなかった。冬美だ。冬美の方だったんだ。 「ふ、冬美、落ち着いて、大丈夫だから」 「寄るな、寄るなぁ!」  冬美は完全に錯乱していた。近寄った雪美を腕を振って近付かせなかった。  彼女が現実を認識してしまった。それが引き金になったのだろう。もう、彼女は殻から出るしかない。 「おかしい、おかしいよこんなの。私は、友達と遊んでたはずよ。なのに、どうして家にいたって記憶があるの? あんたが父さんを殺したはずじゃない。それに、それに、友達と別れた後、なんであいつが……」 「落ち着け。あいつって、お父さんか?」 「お、父さん? そうだ、あの人は父さんだった。父さん、父さん? いや違う! あいつなんて親じゃない。私はあいつらを親だなんて思わない!」  冬美の狂気染みた輝きを秘めた目が、僕に向けられた。口元が歪み、笑っているような、引きつったような表情を作る。
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