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傷口を大きな手で洗ってくれながら、祖父はそっと言った。
ー「…痛い思いをしないと、それが痛いかどうか分からないからな。」
幼い私には、その意味が分からなかった。
ただ、その時の祖父の表情は、少し嬉しそうでもあり、苦しそうでもあった。
ーーー変わらぬ場所に立ち続け、書斎を見つめる思い出の木は、記憶の中より細くなった枝を空に広げていた。
常緑の葉が、風に揺れている。
私は正面玄関に向かった。
足下に敷かれた細かな砂利をさくさくと踏み、コンクリートの階段を2段上がる。
古びた『澄川』の表札の下に、同じように古びた呼鈴が並ぶ。
すっかりベルのマークが剥がれた呼鈴にそっと触れてみた。
音は鳴らなかった。
呼び出す人のいない家では、呼鈴も同じように動かなくなるのだろうか。
私は借りてきた鍵を鍵穴に差し込み、やや重い手応えの鍵をかしゃりと回した。
ゆっくり左に扉を動かす。
がらがらがらと大袈裟な音を立てながら、扉は開いた。
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