シャイロックのいた風景

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 嫉妬に満ちた会場のいくたの耳が、喧騒で聞こえるはずもないシャイロックのささやき声を確かに聞いたようだった。 「私の名前はシャイロックだ。ヴェニスの商人のシャイロックは私の先祖がモデルとなっているのだよ。だから人は私のことを現代のシャイロック、シャイロック2.0と呼んでいるんだ」  ベンチャーキャピタリストはそう自己紹介すると、さっそく仕事の話を切り出した。 「なあ、君、君のそのプランは他社がやらないうちに早くやるべきだよ。君のような才能は株式公開で早く世にでないと社会的損失とさえ言えると私は考えるね」  シャイロック2.0は言葉巧みに青年を誘惑した。  しかし青年は実は心の奥底では、自分のこのプランは単なる思いつきに過ぎないありふれたアイディアであることは知っていた。  自分が世に出たいと思っている本当の理由も、自分の才能を開花させて世の中に何がしかの貢献をしたいという真の企業家精神なのではなく、物心ついたときにはいつも資金繰りに追われていて、落ち着きのない雰囲気がいつも漂う、酒を飲むと説教を始めるあのオヤジが仕切っている生家の町工場から一刻も早く名実ともに逃れたいという一心だった。  そのことを、自分自身でも普段は意識しないように心の奥にふたをしておいたのだった。  だから、このシャイロック2.0なるベンチャーキャピタリストが自分のことをそこまで評価するのはどこかおかしい、とは理性が度々告げていたのですが、人生のこの時期の青年によくあるように、青年はそれは自分の単なる自信のなさだと自分自身を都合よく言いくるめていたのだった。 「しかしシャイロック2.0さん。この事業を行うには少なくともスタートアップ時に5億円の資金が必要です。そんなお金は僕には・・・」  シャイロックは気にするなといった様子で笑いかけた。 「もちろん、社会的な地位も何も無い君がいきなりそんなお金を用意できるとは思っていないよ。君のお父さんの所有する工場の担保価値もたかが知れてるしな。君の下には手のかかる育ち盛りの男の子が4人もいるし。まあ貧乏人の子沢山の町工場の親父に5億は無理だろ」 「え?うちの家族構成や父親の会社のことを調べたんですか?」  青年はシャイロック2.0に驚いて叫んだ。 「まあ、ね・・・。私の息のかかった者が場末の町工場の取引情報を銀行から引き出すことなど、たかだか半日もあれば・・・」
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