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棗に緊張が走り、顔がこわばった。
しかし、このまま突っ立っているわけにもいかない気がして、棗は声を上げた。
「重信さん?」
訝しげに、棗が言い放つと、足音はぴたっとやんだ。
代わりに、こちらに迷いなく向かってくる一人の影をとらえた。
ぐらぐらと揺れながら見えてきた像がはっきりしてくると、それが都の男たちが着るような直衣をまとった、大柄な男の輪郭が浮かび上がった。
その大きさときたら、まるで熊か蝦夷のようだ。
「誰だ?都から来たのか?」
棗の問いに返事はない。
ただただ、影だけがそれにこたえるように大きくなる。
そして、棗の前にとうとう奇妙な男が現れた。
烏帽子をかぶり、白と浅葱の装束である。
雲でもかかりそうな 位置にある顔には、呪符のような何やら四角い面を着けていて実際の顔は全くわからない。
尺を持った手はまるで動かぬ蝋人形のように白い。
まるで、神がかり的なものに思える。
棗は目を見張ってまじまじと彼を見た。
こんな時に、恐怖よりも興味が湧いてきてしまう。
しかし、そんな棗には目もくれず男は何か霧の向こうを見るように遠く、一点を見つめて棗を通り過ぎようとした。
「あんた、どこ行くんだよ」
棗が少し興味をこめた調子でそう言うと、かれははたと足をとめた。
面で隠れた顔がこちらを向く。
面の向こうの顎が一瞬見えた。
そしてそのまま、棗の傍らに躊躇わず膝をついてしまった。
「おい !下はぬかるんでるぞ!」
「蛍の使者……都へ」
棗が高価そうな直衣がぴしゃっと泥につかるのに気を取られた時に、男は口を開いた。
同時に話しかけたので、はっきりは聞き取れなかったが、少し艶のある低い、かすれた声だ。
歳の分からない奇妙な声。
どうやら、棗に言いたいことがあるようだ。
「なんだ?」
「蛍の使者を都へ」
「棗っ!」
男がもう一度話しかけた直後に、耳になじみ深い声が棗の名を呼んでいるのが聞こえた。
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