ダム、廃村、思い出

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「ん」  出てこようとする人とかち合った。ボサボサの髪に、延び出した髭が目立つ僕の父。親子揃って寝坊なのはたぶん遺伝だと母に訴えてやりたい。 「ちょうどよかった。はいこれ」  ばん、とやや乱暴に何かを押し付けられた。痛みについて苦情を申し立てようとする前に「後は任せた」おいこらなんだよこれ。  面倒臭そうに振り返った父は、本当に面倒臭い顔をしていた。自分で考えろよと細くなった目が投げ掛けてくる。負けじと僕も「何これ」と押し付けられたそれを突き返した。 「回覧ば……次佐藤さ……腹へったぁ」  どんだけ面倒臭いんだよ。『ん』ぐらいちゃんと言え。  僕にこれ以上時間を割くつもりはないらしく、居間の奥に父は引っ込んでしまった。母さんが一人でもくもくとチャーハンを頬張っていた。そこに父さんが加わって「ん」と昼飯をねだった。そこでは『ん』は使えるんだな。  手元に残った回覧板に目を落とす。  でかでかと『回覧板!』と書かれたそれは角で叩けばめちゃくちゃ痛いくらいの硬さで、煩雑にプリントが挟まれていた。粗暴な小学生のファイルみたいな有り様だ。  さて、と考えてみる。  こういう地区での決まりごとは順守しなければ後々我が身に得なことはない。ゴミ出しの曜日だったり、この回覧板を回したりなどがその最たる例で、主に主婦たちからの視線が痛くなる。僕が実害を受ける訳じゃないから、というわけにはいかない。母さんが困るのだ。  ……でも多分だが母さんが回すのが面倒臭いからと父さんに頼んだ回覧板をさらに同じく面倒臭いからと父さんから僕に押し付けられたことは想像に難くない。  両親は揃って面倒臭がりだ。休日なんてないと言った母も働き者だからそんな発言をしたのではなく、ただ単に家の中が汚かったから言ってるだけだ。あの人が掃除をしているところはなかなかお目にかかれない。この回覧板も期限ギリギリだったから父に押し付けたのだろう。期限を守りたいという心意気は買うが、それなら自分で持ってけ。 「今晩はハンバーグにするから頑張ってねー」  ヒラヒラとスプーンをもった母さんが手を振ってさっさと行けとせっつく。子供扱いしてんじゃねえ。  反抗する気力も寝起きのだるさに負けて沸いてこない。面倒だし、と唯々諾々に回覧板を届けに行く僕は紛れもなく両親の子だった。
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