1)運命の糸、紡いで。

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「嵐の前の静けさ」 とは本当によく言ったものだ。 今晩ほど、その言葉に似合いの夜は無いだろう…と、伊東大蔵は何処か高揚した心地で酒を傾けた。 ほんの数刻前まで、血気盛んな若衆である藤堂平助が、あれやこれやと鬱積した思いを吐露した道場も、今は不思議と穏やかな夜風に包まれて、酷く清らかなものに感じられる。 道場主である伊東大蔵は、此処の所、一日もおかずに通い詰める藤堂に辟易していた。この男は、伊東が入り婿をして継いだ道場の門弟で、伊東にとっては良くも悪くも弟子にあたる。 過日の池田屋での大捕物で酷い傷をこさえたらしい藤堂が、療養の為に江戸へ下ったことは誰に聞くでもなく耳へ入ったが、その男がよもや道場の門を叩くとは伊東ですら考えつかぬ事だった。 新撰組の名は、今や京から遠く離れた江戸の街にも轟いており、その副長助勤職にある藤堂の名もまた、そこそこに知れたものだった。だからなおのこと、こんな道場に今更何の用事があろうかと伊東は思案する。 立身出世の報告へ来たのなら、同門として喜んで座敷へあげようが、藤堂の顔を見るなり、それはどうやら誤りであったと悟った。門前に立つ藤堂は、何処か追いつめられた顔をして、とても出世を誇るようには見えない。
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