第四章 終戦と心の病

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「言わずと知れた豊竹中の強打者ですよ。怪物って言われてましたでしょ」 「あっ、そうそう……怪物、怪物」といかにも懐かしそうに顔を綻ばせながら伊勢川は言った。 「昔のことみたいに思い出すばってん、同じチームやった人の名前もあやふやたい……。そうか、藤尾さんがミラクルスに入ったか、知らんやった(知らなかった)……。  そげにしても、運命って皮肉かね。幸運を掴む者もいりゃ、俺のように心を病むもんもいる。ピッチャーとして投げたのはあの試合が最初で最後やったばってん」 「信じられへんなあ」 「飽くまで強豪の豊竹中でという意味たい。福岡の中学から転校してきたんだよ。前もピッチャー任されてたばってん、大概一回戦で敗退するよな弱いチームやったばい」  聞き慣れない方言は、どうやら福岡のものらしい。「ばってん」もバツの意味ではないようだ。後で調べて「だけれども」と逆説の意味で九州地方で使われている言葉だと分かる。 「でもあの試合は、途中まで完全に抑えられてましたね。剛速球でこっちは最初なす術がなかったし」  伊勢川の第一印象から、当時のピッチャー笹山を思い起こさせることはなかった。普通の人よりは頑強な体躯なものの、当時の周囲をねじふせるかのような威圧感は全く感じさせなかったからだ。 「それがまさか、場外ホームラン打たれる破目になるなんてな。俺も俺だ。  まだ試合が負けと決まっちょるわけじゃなかとに、心臓がバクバク言って、責任が風船みたいに頭の中で膨らんで、次には重圧が体にのしかかるような気がして、何が何だか分からんようになってしもたと。  情けなか話ばってん、そん時のショックが原因で、病院に入った」
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