第五章 時代の流れ

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「ようやく日本も独立か」と、会社から帰って夕食を食べた後の和久井潤一郎は、居間の畳の上で胡坐をかき中都新聞を広げながら言った。 「そうなんですか」と、政治経済のことは右も左も分からない芳子が炊事場で茶碗を洗いながら返事した。 「これからの時代は、女性だって新聞ぐらい目を通さなきゃなあ。一日中家にいるんだから、読む時間ぐらい作れるだろ」 「あっ、私に言ってるんですか?」と、振り向いて返事した。 「ちらっと見たことはあるんですけど、なんせ読めない漢字が多くって、ちっとも意味なんか分からなくて、まるでチンプンカンプン。その点、ラジオだったらまだ理解できるんですけど」 「お前の聴いてるのは、ニュースじゃなくて音楽だろ」  図星だった。アメリカの軽快なジャズがラジオで流れたとき、立ちながら思わず体を揺らせてテンポを取っていたもので、それを後ろから夫の潤一郎に観察されていたことに気づいたときは、目から火が出るかのような思いがした。  一方のニュースを聞いているときは、時代の流れが速いせいもあるのだが、右の耳から左の耳へ通り抜けるかのようだった。  記憶に残る言葉があったとしても、新聞同様、意味は理解できなかった。それを補うかのように、たまに潤一郎が重要と思われるニュースについて、訊ねてもいないのに説明してくれるのだが、内容の半分も心には残らなかった。 「一応、高女(高等女学校の略)出てるんだろ」小馬鹿にするような口調で潤一郎は言った。 「あなただったら分からないわけないでしょ」と小声ながらも、少しムキになって芳子は返した。 「学徒動員で仕事が終わったらへとへとで……、たまに授業とかもありましたけど、居眠りしては起こされって状態でしたから、勉強はしていないも同然ですよ」 「それでも周りでは、必至になって勉強していたやつはいただろ?」  容疑者を追い込む警察官のように詰問を畳み掛ける潤一郎に、少し苛立っていた。 「まあ、中にはいましたけど、そんな子は学級でも数えるぐらいじゃなかったかなあ」
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