かたはね

8/8
前へ
/20ページ
次へ
私の前髪、まぶた、睫毛に唇。よく見れば指の先も、青く青く、深い輝きに染まっている。 蝶の鱗粉に染められたのだ。 「信じますよ。貴女のお話」 カウンターの向こうに回り何やら作業をしていた青年は、私の前に白いティーカップを置いた。 「まだ夜は冷えますから、ブランデー入りの紅茶をどうぞ。温まりますよ。お酒がお好きなのでしたら、もう少しブランデーをお入れしますけど」 私は首を振り、カップを口に運んだ。少し癖のある飲み物はノドの奥を通り過ぎると同時に、じんわりと体を温めてくれる。 「詳しい原因は分かりかねますが、蝶は多分……繁殖のシーズンを迎えたのでしょう。だから絵から抜け出したくて、たまらなかったのですよ。春ですからね」 絵の事は僕からオーナーに説明しておきますね、と付け加えて、青年は私に微笑んだ。 青年の優しげな笑みで、私の脳裏に柔らかな色の炎がポッと灯る。 何となく蝶の絵を捨てがたく思っていた理由。その昔に淡い恋心を抱いていた、高校の先輩にもらった物だったからだ。結婚して数年前に、遠くへ行ってしまった先輩。古びた思い出。 カップを持つ手に貼られた絆創膏も、光度の高いサファイアの粒を塗したように染められている。 傷が治ってもしばらくは、この絆創膏を手に貼ったままにしておこうと決め。私はもう一口、紅茶を飲んだ。 もうすぐ…………春だ。 [END]
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!

7人が本棚に入れています
本棚に追加