海とステンドグラス

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【海と神父】 海辺の喫茶店は年に何度もない慌ただしさ。 名所である古城から丘一つ離れ。貪欲に観光しようと海沿いに歩いてきた客は皆、コーヒーの香りに安堵した顔で席に着く。 こぎれいな服と爪先。輝く髪が陽気のせいなのか、連日のように席を占めていた。裕福な旅人達。 休息した旅人は丘を越えて再び去る。 ーー今日も来ない。 最後の一人を見送り、私は砂袋のごとき心と体を引きずり片付けをする。 開けた窓から潮風が髪を引き私を呼ぶ。 反対側の窓に顔を背けた。 丘の上ですっくと背を伸ばす白い塔。藍から漆黒に染まる垂れ布へ、濃い極彩色の星を散らすステンドグラス。 闇に輝く教会が私を深い淵から助け起こす。 教会に住む神父は私の友人。しかし一ヶ月ほど姿を見ていない。 ーー忙しいのだろうか。 記憶の底よりふつふつと泡が立つ。 手招く海。骨ごと私を食らおうと寄せる波。弟を飲み込んだ暗く寒い海。 私の精神は細かく震えて、割れる寸前の硝子の瓶。 ーーQui tollis…… 文字の羅列が鼓膜に忍び寄る。放たれた窓に視線をやると、徐々に拡大する影。 Qui tollis peccata mundi,miserere nobis. Qui tollis peccata mundi,suscipe deprecationem nostram. 世の罪を取り除いて下さる方よ、私達を憐れんで下さい。 世の罪を取り除いて下さる方よ、私達の願いを聞いて下さい。 Amen. 件の神父が潮風に乗せ静かな音を口ずさむ。 ーーもう閉店でしたか。 遠慮がちに軋む扉から、年齢の刻みを覗かせた友。私は首を振る。 ステンドグラスは、いつも私を海の手招きよりすくい上げてくれる。 神父の願いを叶えるため火を灯し湯を沸かした。 [了]
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