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【海と花嵐】
コーンポタージュ一皿とパンが一切れ。魚のマリネかフライを少し。コーヒーも煎れる。
昼も夜も代わり映えのしない朝食を済ませ、私は扉を開ける。
ここは海辺の喫茶店。そして私の住居。晴れ渡る空が目に染み込み、濃い潮騒が髪に絡みつく。
昨夜の強風に煽られた波が、砂浜にごろごろと落し物をしていた。小石、貝殻、異国からのゴミ。
ーーあれは何?
薄紅色の欠片が点々と、砂に痕跡を残す。
ーー桜貝。
あちらにも、こちらにも、何者かの足跡のごとく。ここまで大量に流れ着くのは珍しい。
薄い花弁を拾い集めると、ずっと前にもこうして桜貝拾いに夢中になった過去が蘇る。
ーーおはようございます。昨日はひどい風でしたね。
ーーおはようございます。ええ、ほんとに。
散歩する青年が、朗らかな笑顔を私へ向けてきた。子供じみた遊びに夢中な自分が恥ずかしく、手からほろほろ薄紅色が舞う。
ーー喫茶店の人ですよね。
ーーはい。
思い出した、このところ毎日コーヒーを飲みに来る青年だ。遠い町で家庭教師をしていて、今は休暇中なのらしい。
ーー僕の住む町にも、海がある。そして荒れた晩に、海から鐘の音が響き渡るんです。
ーー海から?
ーーええ、昔は海辺に教会が建っていたらしいですがーー
青年は海と反対方向へ目をやった。丘の上には輝く教会。
ーー落雷で崩れた教会より、鐘が転がり落ちて、海に深く沈んだのです。
ーー神の怒りでしょうか。
ーー昔々の話です。嵐の夜には、鐘が許しを請うように高らかに鳴るのです。
笑って去っていく青年だったが、目の下には隈が浮いていた。
ここの海も鐘を鳴らすのではと、一晩中耳を澄ませていたのだろうか。
潮騒を背に、教会を見やる。朝日に映えて今にも飛び立ちそうな、白い塔の先端。伸び上がる寸前のステンドグラス。
ーーさあ店を開けなくては。
丘を下り橋を渡って、一杯の憩いを求める人々が直にやって来る。
私の指から放たれた花嵐が、囁くような音で薄紅の軌跡を描いた。
〔了〕
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