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 別にあなたが哀れむ必要はない。そう彼は思った。自分達の関係は、同じマンションに住んでいても部屋が違えば『他人』であるのと同じなのだから。 『あなたがこの子の面倒を看てくれない?』  機械的な会話しかしていなかった母親が彼に振り返りそう言った。  たぶんそれは、『兄』としてではなく『ベビーシッター』として、という感覚なのだろう。彼は特に断る理由も無かったのですぐにそれを承諾した。もしかしたら、初めての親孝行に似たものに喜びを感じていたのかもしれない。  妹が一才から二才の間のこと。  ふと、喉が渇いたので妹のお守をしていた彼は台所に行こうと立ち上がった。   ――にぃち。  言葉になっていない音が聞こえた。最初、それは何かが擦れた音だろうと思い、気にすることはなかった。  ――にぃち。  しかし、二度目は流石に聞こえた。  生まれてから初めて妹が喋ったのだと気が付いた。  彼が反応を返せずにいると、妹はたどたどしく繰り返した。 「にぃち」  彼が妹と話すとき「兄ちゃん」という一人称を使っていたことを思い出す。自分のことだろうか。しかし、気のせいだと首を振った。  いままで通り意味の無い文字の羅列だろう。そう思って振り返ると、彼に向かって椛のような手を伸ばしている妹がいた。  ――にぃ、ちゃん。  彼は眼を剥いた。  妹が「ぱぱ」や「まま」などと言うのを彼は聞いたことは無かった。初めての妹の言葉は、『彼』の役割――つまり、印であり、『兄』という役割だった。なぜかこのままではまずいと思い、妹の言葉を遮り台所に行って水をグラスに注ぎ一気に飲み干す。 「あれ?」  水を飲んだはずなのに喉が渇いたままだった。なぜか咳が止まらないからだ。さらには目頭まで熱くなってきた。頬を伝った雫がきちんと閉まっていない蛇口のようにポタポタと落下してゆく。 「泣いて、いるのか?」  それは、彼が物心ついてから初めての涙だった。  何年か経過した。  家に帰りって、ただいまと言えば、おかえりと帰ってきた。おはようも、山彦(やまびこ)のように返ってきて、おやすみも返ってくる。  彼は家を得た。『兄』を得た。そして、『家族』を得た。 (俺は兄だ)  ふと、『兄』は『妹』を――『家族』を守るものだ、と友人が言っていたのを思い出した。 (なら、俺もそうしよう)
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