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誰かが叫んだ。しかし、遅かった。霧はすでに店内を蹂躙していたのだ。
パニックすら起こらない。なぜなら隣の席にいた赤ん坊は両親に泣きつく時間も与えらておらぬままに融解しており、その両親はすでに物言わぬ骸と化しているから。
そして彼はその悪夢のような光景に佇立していた妹を庇いつつ地に伏せた。そこから先の記憶は覚えていない。
気がつくと彼はだだっ広い平野にいた。
涼しげな風が吹いており自然の息吹がそこらじゅうに感じられる。とっさに心臓に手を当てると頼りになる鼓動があった。
「ねえ、兄さん。ちょっと、重いかな」
「あ、ごめん」
彼は自分が妹を押さえつけるような体勢になっているのに気がつき慌てて立ち上がった。そして彼は、なぜか違和感を覚えた。
「うわっ」
妹の他にも人がいたのか肩がぶつかってしまう。自分に非があるので彼が謝ろうとすると、
「……!?」
「え、と。すみません?」
相手の言葉がわからない。いや――。
「ここは?」「――!」「――!?」
いろいろな多種多様な人種が彼の視界を埋め尽くしていた。ざっと見て、三桁は行くだろう。それほどに人が多い。彼らは全員が人間という以外共通点はなく、聞きかじったことのある他国の言葉が辺りを飛び交っている。妹も困惑しているようで、不安げな表情でこちらに体を預けてきた。
(俺が、守らなければ)
兄としてこういう時こそ妹を守らねばならないのだ。無意識に思い浮かんだその言葉を脳内で反芻して意識すると彼の頭が冷えていった。
(まずは、どうやってここに来たか、だ)
ここは見渡す限りの平原だ。
しかし、彼らがいたのは街中の喫茶店で、そして、紫の霧に包まれた。
(睡眠薬か? いや、でも……)
彼らが霧を浴びる前の町を歩いていた人々は――。
「……っ!」
急激に吐き気が襲ってきたのを妹の前で情けないところを見られてはならないと思い堪えた。
(もしかして、俺は……俺達は、死んだ? ここは……死後の、世界?)
そんな馬鹿な、と否定した。だが、
「兄さん気のせいかもしれませんけれど、どこか若くなっていませんか?」
そうだ、と量の多い息を吐いた。
違和感が室温で氷がだんだんと溶けるようにして姿を覘かせる。
彼だけではなく妹も若くなっている――というより、先ほどより若いときの髪形である直毛になっていた。よく見ると老人がいない。赤子もいない。
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