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「お母さん、お腹すいたー」
「シリアル食べたじゃん」
「あれはおやつ!」
はいはい、とナツミの反駁を受け流して、僕は母親へ向き直った。
「じゃあ、明日の朝も早いでしょうし、夕飯を食べさせて、寝かせてやってください」
「はい、本当にありがとうございました」
また、母親は頭を下げた。
自分がかなり粗野な方なので、こういう礼儀正しいタイプは少し苦手だ。
ドアを開けると、外の冷気が待っていたかのように、室内へ流れ込む。
外にナツミをおいておかなくてよかった。
踊り場の古い蛍光灯が、死にかけの虫の命のように、儚く、瞬いていた。
あぁ、ここ大家さんに頼んでおかないとなぁ。
「あのぉ……」
「あ、はい」
母親の小さな声で、現実に戻される。母親は僕を見上げ、申し訳なさそうな声でこう言った。
「失礼ですが……お名前はなんとおっしゃるんですか?」
「へっ!?」
僕は素直に驚いた。
ここに越してきて早一年、向かいの名前も知らずにこの人は生活してきたのだ。
でも、それも仕方ないことなのかもしれない。
ここのアパートの人間関係はそれほどまでに希薄であるのだし、第一、僕の部屋にはネームプレートはないのだから。
「あ、あの、すいませんっ」
僕が気分を害したと思ったのだろうか、母親は再び頭を下げた。
「いや、違うんです」
こうして間近で見てみると、まだまだ若いように見える。
多分、僕より2、3歳年下じゃないだろうか。
僕は頭を下げる母親をなだめて、こう言った。
「広田です。広田駿と言います」
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