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グラス一杯の水は待てども待てども来なかった。テーブルの上には、木の籠とその中にあるナイフやスプーンの束だけがある。
このかび臭い壁といい、喧嘩の爪あとが残る机や椅子といい、数年前、最後に立ち寄った時とまるで変わらなかった。水だけ頼むと、偉く待たされるこの風習も同じ。
まあ、これはフランスでも同じだった。水は安い上に綺麗な物を手に入れるのも大変だから、これだけを頼んで、バーの主が嫌な顔をするのも当然と言える。
だが、クリストファー・ノールズ――クリス――は酒を飲みたいという気分ではなかった。酔いつぶれるのは、フランスから帰った時に既に済ましてある。そんなのは戦いと同じ。
ただただ、虚しさが残るだけの意味のない行為だ。長い茶髪を右手で弄りながらその視線は店のマスターに向けられる。だが、実際は何を見ているというわけでもなかった。
ふと横を見ると隣の客――酔いで真っ赤に顔を火照らしている――がおかわりを注文していた。グラスに注がれるあの紅い液体は悪魔の血かなにかに違いないと、修道士が聞いたら殺気立ちそうなことをクリスは本気でそう思い始めている。
バーの窓からは港町が覗いていた。水はいつまでたっても来ないが、秋の風に吹かれる穏やかな海を観ているだけで喉の渇きも忘れられる。これが、ついぞ前まで敵の兵士を何人も斬り殺してきた青年だと思う者はいないだろう。
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