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「そうね、例えば、あなたが中学生の頃、意中の相手宛てに気持ち悪い文章で綴った恋文をクラスの男の子に見つかってしまい、挙げ句の果てに、それを黒板に貼り付けられるという辱めを受けたという過去、その過去を『忘れているだけ』なのと、『完全になかったこと』に出来るのでは、どちらが好ましいかしら」
鍵子は、やたら早口で、饒舌に、そして一言一言に棘を含む口調で、ペラペラと語り出した。
「そうだな。確かに、完全になかったことにしたい過去だな」
「判ればいいのよ」
「まあ、俺にそんな過去は、絶対になかったけどな」
(よくまぁ、有りもしない想像上の過去をあんなにも饒舌に話せるもんだな)
「……最初に例えばって言ったのが聞こえなかったのかしら」
「例えばって付ければ人の過去をでっち上げていいなんてことには、ならないだろうが!」
「あなたのイメージから創作したのよ。それなりに自信もあったわ」
「……いい根性してるな、お前」
「まあね、それより話の論点がズレてるわ。あなたの可哀相な過去は、ともかく、これで分かったでしょ、サービスって言った意味が」
「あなたの可哀相な過去じゃなくて、お前が勝手に作り出した過去、だからな」
鍵子は、サラっと流そうとしていたが、これだけは譲れない。
「はいはい、それより、そろそろスタートしたら?」
(こいつ、一瞬で投げやりになったな)
「スタートって言われても、最初にどうしたらいいのか判らないからな」
目の前に鍵子が立っているせいで動こうにも動きにくい。
「……ルール的に見ればもうスタートしてるのだけれど、厳密に言わせてもらえば、あなたが開いたその扉を閉めない限り始まらないのよね」
そう言って、鍵子が俺の後方を指差す。
振り返ると開ききった扉と、見慣れた自分の部屋が視界に入る。
「ちなみにね、引き返すなら今しかないから気を付けて。扉を閉めたらもう迷宮をクリアするまで出られないから」
ここまで来て引き返す奴は、少ないだろう。
当然俺も……
(あれ、おかしいな。忘れたい過去があったから鍵子の下を訪ねた筈なのに……その過去が思い出せない!?)
「当然よ、もう鍵は掛けたのだから。まあ、変な期待をしてるところ申し訳ないけど、あなたがそのまま帰った場合、私が全ての鍵を開けるから、記憶も過去も結局は思い出すわ」
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